石川ひとみ 1959(昭和34年)9.20 名古屋市・西区生まれ。
家の近所の産婆さん(助産院)で生まれた。体重2,800g。
9月26日は歴史的災害をもたらした伊勢湾台風が東海地方を直撃しており、お七夜のお祝いは台風一過の日でした。
家の近所の産婆さん(助産院)で生まれた。体重2,800g。
9月26日は歴史的災害をもたらした伊勢湾台風が東海地方を直撃しており、お七夜のお祝いは台風一過の日でした。
命名は2つの話があります。
父の石川二三郎さんがつけたが、最初は優子という名前も候補にあがっていた、という本人の話。
母の石川静恵さんが映画『新妻鏡』を見て感動し、主人公の愛児の名をもらった、という本人の話。
優子とひとみと、候補があがって、結局ひとみになった、ということでしょうか。
台風っ子エピソード
お母さんの話
「普通だったら妊産婦は1週間ぐらい入院してるんですが、台風が近づいてくるというんで、予定より早く退院させられちゃったんです。
ところが、その頃住んでた家というのは、主人が自分で建築した家で、雨戸がなくて、ガラス戸一枚だったんです。
雨や風はだんだん強くなってきて、ひとみを寝かせている部屋にビュービュー吹き込んでくるんです。
私は、ひとみを産んだあと、40度近い熱が出ちゃって、立つこともできないくらいフラフラだったんだけど、主人と一緒に必死になってガラス戸を押さえてました。
何しろすごかったです。ガラス戸はしなるし、家は吹き飛ばされそうだし。
そんな時に、生まれたてのひとみは、泣きもせずスヤスヤと寝てました。
私はあせっちゃってて、ひとみのおむつやら、うぶ着やら、脱脂綿やら荷物にまとめて、ウロウロ。
主人に「おまえ、この台風の日に、どこへ逃げようっていうんだ」といわれましたけど、とにかく家が倒れても、ひとみのおむつだけは持って逃げようと思ったんです。」
...という台風っ子エピソードがあります。
私が子どもの頃住んでいた家もそうでしたが、当時は知り合いの大工さんに声をかけて家を建てるのです。
大工さんが土台と骨組みを作り、屋根を葺いたあとは、父親が板張りなどを手がけ、引き戸などの建具だけは建具屋さんが入れる、というのがごく普通でした。
親戚や兄弟などが手伝ったりする事もあり、誰でも大工さんのまねごとができましたね。
美和町へ引っ越し
753のお祝い
乗り物遊び場で

幼稚園のお誕生会 (4歳の頃)ぶちゃむくれています。


(4歳のときのひな祭り)
「2歳のとき、名古屋駅から名鉄津島線に乗って20分くらいの所にある海部郡美和町の二ツ寺住宅に引っ越したの。
まわりに川や田んぼがいっぱいある、のどかな町で、ここで私は高校を卒業するまでの15年間を暮らしました。
幼稚園児のひっちゃん。まだ顔立ちが整っていないけど、かわいいね。 5、6歳の頃

家の中では、お人形さんやぬいぐるみで静かに遊んでたそうです。
お兄ちゃん(石川恵二さん)は5つ年上で、やさしくて、仲のいい兄妹でした。ケンカなんてしなかったなあ。」
歌姫ならぬ歌ベビーだったのだ
お母さん
「歌を歌うのは、まだ背中におんぶされてる頃から好きでしたね。私が教えた童謡を、回らない舌で歌ってました。
『ハールよチョイ』なんてね。
電車に乗せているときも、ずーっと歌い続けるんです。電車が走っているときは、騒音で他の人に聞こえないからいいんですけど、電車が止まったとたん、ひっちゃんの大声にみんなふり返るんです。
恥ずかしくてたまりませんでしたね。
人見知り&怖がり
でも普段はおとなしくて人見知りをよくしたので、全然目立たない子だったんですよ。
ただキチッとしたことが好きで、玄関の靴を知らない間にそろえておいてくれたり、洗濯物をちゃんとたたんだり、几帳面でした。
クモとかハエが大キライでした。ある日家の中にブーンとハエが飛んできて、泣き出しちゃったので、これはハエだよ、と教えてやると、そのあと、たき火の灰も怖がるようになったんです。ハエとハイがこんがらかって、ハイという言葉を聞くだけで泣いていました。」
石川ひとみ
「子どものころの私は、よくひきつけを起こして、お母さんたちをビックリさせたそうです。
幼稚園は、
5歳のとき桜台幼稚園、
6歳になってお寺の中にある七宝幼稚園にかわりました。
近所に住んでいた藤沢由紀ちゃんていう、同い年の子とよく一緒に遊びました」
藤沢由紀さん
「幼稚園にいるときはけっこう活発な子で、何でもやりたがる子でした。
その頃からかわいかったですよ。
よくふたりで田んぼのあぜ道を歩いて遊んだり、小川でザリガニやメダカをとったりした思い出があります」
虫は苦手だけれども、ザリガニは平気だったようですね。
子どもの頃の石川ひとみちゃん、怖がりで人見知り。
三つ子の魂百までも。
怖がりはずっとそのままのようです。
父の石川二三郎さんがつけたが、最初は優子という名前も候補にあがっていた、という本人の話。
母の石川静恵さんが映画『新妻鏡』を見て感動し、主人公の愛児の名をもらった、という本人の話。
優子とひとみと、候補があがって、結局ひとみになった、ということでしょうか。
台風っ子エピソード
お母さんの話
「普通だったら妊産婦は1週間ぐらい入院してるんですが、台風が近づいてくるというんで、予定より早く退院させられちゃったんです。
ところが、その頃住んでた家というのは、主人が自分で建築した家で、雨戸がなくて、ガラス戸一枚だったんです。
雨や風はだんだん強くなってきて、ひとみを寝かせている部屋にビュービュー吹き込んでくるんです。

何しろすごかったです。ガラス戸はしなるし、家は吹き飛ばされそうだし。
そんな時に、生まれたてのひとみは、泣きもせずスヤスヤと寝てました。
私はあせっちゃってて、ひとみのおむつやら、うぶ着やら、脱脂綿やら荷物にまとめて、ウロウロ。
主人に「おまえ、この台風の日に、どこへ逃げようっていうんだ」といわれましたけど、とにかく家が倒れても、ひとみのおむつだけは持って逃げようと思ったんです。」
...という台風っ子エピソードがあります。
私が子どもの頃住んでいた家もそうでしたが、当時は知り合いの大工さんに声をかけて家を建てるのです。
大工さんが土台と骨組みを作り、屋根を葺いたあとは、父親が板張りなどを手がけ、引き戸などの建具だけは建具屋さんが入れる、というのがごく普通でした。
親戚や兄弟などが手伝ったりする事もあり、誰でも大工さんのまねごとができましたね。
美和町へ引っ越し
753のお祝い


幼稚園のお誕生会 (4歳の頃)ぶちゃむくれています。



(4歳のときのひな祭り)
石川ひとみ
「2歳のとき、名古屋駅から名鉄津島線に乗って20分くらいの所にある海部郡美和町の二ツ寺住宅に引っ越したの。
まわりに川や田んぼがいっぱいある、のどかな町で、ここで私は高校を卒業するまでの15年間を暮らしました。
幼稚園児のひっちゃん。まだ顔立ちが整っていないけど、かわいいね。 5、6歳の頃


家の中では、お人形さんやぬいぐるみで静かに遊んでたそうです。
お兄ちゃん(石川恵二さん)は5つ年上で、やさしくて、仲のいい兄妹でした。ケンカなんてしなかったなあ。」
歌姫ならぬ歌ベビーだったのだ
お母さん
「歌を歌うのは、まだ背中におんぶされてる頃から好きでしたね。私が教えた童謡を、回らない舌で歌ってました。
『ハールよチョイ』なんてね。
電車に乗せているときも、ずーっと歌い続けるんです。電車が走っているときは、騒音で他の人に聞こえないからいいんですけど、電車が止まったとたん、ひっちゃんの大声にみんなふり返るんです。
恥ずかしくてたまりませんでしたね。
人見知り&怖がり
でも普段はおとなしくて人見知りをよくしたので、全然目立たない子だったんですよ。
ただキチッとしたことが好きで、玄関の靴を知らない間にそろえておいてくれたり、洗濯物をちゃんとたたんだり、几帳面でした。
クモとかハエが大キライでした。ある日家の中にブーンとハエが飛んできて、泣き出しちゃったので、これはハエだよ、と教えてやると、そのあと、たき火の灰も怖がるようになったんです。ハエとハイがこんがらかって、ハイという言葉を聞くだけで泣いていました。」
石川ひとみ
「子どものころの私は、よくひきつけを起こして、お母さんたちをビックリさせたそうです。
幼稚園は、
5歳のとき桜台幼稚園、
6歳になってお寺の中にある七宝幼稚園にかわりました。
近所に住んでいた藤沢由紀ちゃんていう、同い年の子とよく一緒に遊びました」

「幼稚園にいるときはけっこう活発な子で、何でもやりたがる子でした。
その頃からかわいかったですよ。
よくふたりで田んぼのあぜ道を歩いて遊んだり、小川でザリガニやメダカをとったりした思い出があります」
虫は苦手だけれども、ザリガニは平気だったようですね。
子どもの頃の石川ひとみちゃん、怖がりで人見知り。
三つ子の魂百までも。
怖がりはずっとそのままのようです。
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