あの、一時代を、桜のように咲いて桜のように散っていったアイドル天地真理の最後のヒット曲「想い出のセレナーデ」(1974.09.01) 作詞:山上路夫/作曲:森田公一)を、同じナベプロの後輩石川ひとみが歌っています。
「天地真理さんがいなかったら、私は歌手になっていなかった」と石川ひとみちゃんが言ってましたけど、ひっちゃんの中学生時代は天地真理の花吹雪の中といってよいでしょう。
テニス部の石川ひとみ、「あなたを待つのォー、テニスコート」なんて、心の中で口ずさんでいたのかもしれません。(美和中学2年の時に天地真理「恋する夏の日」リリース)
『まちぶせ』のイメージとは大違いです。
でも白雪姫のおネー様と、くるみ割り人形ひっちゃんなら、元旦の晴れた雪景色のようだな。
キャンパスライブ早稲田で、ひっちゃん感激のご対面を果たしますが、この時は天地真理が再々デビューの時ですね。
女性友達の家で、初めて「水色の恋」のレコジャケを見たとき、「天地の真理」!って、どんな歌詞なのだろう?と、非常に興味を持ちました。
恥ずかしい...。精神世界にどっぷりの青年時代でしたから。
(釈由美子のタレント本を見たときは、釈尊の姓を名乗るからには、相当な女性教祖(仏教の)なのだろう、と勘違いしたくらい芸能界音痴でした)
そのお友達は「こんどデビューする歌手なのよ」とさりげなく言ってくれましたので、レコードを手に取ってみるとB面のタイトルではなく、A面「水色の恋」 (歌手)天地真理だったのですねー。
あまりにも意味がありすぎる芸名でしたから、私はその意味性に惹かれて、歌詞のタイトルだと...
その後は桜が満開の風景のように、天地真理大フィーバーで、朝から晩まで天地真理、やり過ぎでしょうね。
その彼女の最後のヒット曲と言ってよい「想い出のセレナーデ」をひっちゃんが歌う。感慨深いものがあるでしょうね。真理ちゃんのようになりたいと夢見た石川ひとみ、デビューしたときには真理ちゃんはもう芸能界から姿を消していた。
山上路夫はやはりロマンチストですけれども、それだけにとどまらない男性的知性、言葉をかえれば論理的一貫性というものを感じます。
この歌詞は山上の抱く女性像が投影されたものであるけれども、いささか理想化された女性像ですね。
この歌詞を女性の心情だと解釈している人が多いようですが、山上的理想の女性像ですね。
「また眠れなくて、ひとり窓に寄りそえば」
これは、失恋のやるせなさや悲しみを意味してはいないと思う。
「あの坂の道で 二人言ったさよなら」
「今日も星が とてもきれいよ」というところに、それが表れています。
日本人のウェットなメンタリティーからすると、悲しいこころでは星も泣いて見え、夜空は春霞がかかってしまうものです。
山上はそうは書かず、星がとてもきれいよと書いている。女性の心情ではありえないでしょうね。
もともと、女性は散々泣きおえてしまうと、終わった恋をあれこれ回想したりしないものですけどね。
追憶にむせぶのは意外ですが男性の方です。山上は男としての自分が理想とする女性像(厳密には女性の別れ)を描いています。そして、それを歌う歌手があくまでも明るい天地真理だった。
それで、この歌詞のキーワードになるのは、「あなたのあの胸」という表現ですね。
この女性はふっきれているのですよ。「何故に今はとどかないの あなたのその胸に」とは歌わない。「あの胸に」ですから、距離感があります。決して未練たらたらではない。
そういう思いではなく、響き合っていた2人のこころは、通じなくなってしまったという、冷めた思いです。
「あの」も「その」も、大して違いがないと思う方もいるかもしれませんが、傍証として指摘すれば、
「窓に咲いた 花もないのよ」というフレーズ。
「あなた」は、私と別れてどこかの街に引っ越していったわけではない。以前と同じようにそこに住んでいるわけ。
「あなたの家が見えてくる」のだけど、私とではなく、別な女性と結婚あるいは一緒になり、そこに住んでいる、ということです。
考えてみれば、残酷にして哀しい風景だと、思うよ。それにもかかわらず...
歌のメロディーに乗って通り過ぎてしまいそうですが、ここは「花を持って私が訪ねて行かなくなった」(なぜなら、あなたは別の女性と暮らしているから)...
ということを、山上らしくさり気なく表現しているわけだね。
淡々として、ウエットなものはないし、修羅の心も見られない。山上が女性に投影する品格なのだと思う。
この歌を聴いてすぐに連想するのは、
森山良子「恋人」ですね。この歌を意味的に受けて成立しているな、と。
(「恋人」は【海のようなやさしさで】の中程で取り上げました)
愛し合った 二人のため 永久(とわ)の命だけが欲しい
あなたの腕に 腕をからませ 時の流れを止めてみたい
それがかなわぬことならせめて 悔いない今を生きるの
人生、出会いは別れの始まりですから、せめて出来ることは「悔いない今を生きる」ことだけなんだよ、という禅的な「一期一会」のような悟りが山上の人生哲学にはあるのでしょう。
その歌を、憂い声の第一人者たる森山良子が歌った。
「人はなぜに死んでゆくの」と、叫びに近い声を張り上げ、
「悔いない今を生きるの」と諦観を漂わせて淡々と終わる。
ですから、それを意味的に受けている「想い出」系のこの歌は、
きらめくような ひとときを
あなたと生きて 来たことを
これからも忘れないわ いつも胸に抱いて
という表現になる。
山上路夫のこころの中では、当然の帰結です。首尾一貫しているものがある。
この歌は(あのとき)悔いない今を生きてたわ、ということですね。
明るくて、ウエットではない天地真理にふさわしい歌です。
ですから、繰り返し歌われる
あんなに素晴らしい愛が
何故に今はとどかないの あなたのあの胸に
という言葉が、少しも涙で曇っていない。
「今日も星が とてもきれいよ」という表現にそれが、女性らしい柔らかさを持たせつつ格調高く表象されていると思う。
論理的な一貫性が、こころの揺れを制御していると言ってよい。
けれども、それだけならばどこか冷たい厳しさを感じもするだろう。
しかし、山上路夫がヒューマニストだと言われるゆえんは、
※ あなたのもとへ いそいそと
季節の花を かかえては
訪ねたの
このかわいらしい歌詞ね、
「それでいいんだよ」という山上の父性的な温かいまなざしを感じます。
この曲は、山上路夫が理想化する「女性の別れた後の姿」が描かれていますので、男性ファンはグッと来るはずです。
(別れた元夫の悪口を言っている、元アイドル女優さん...もう虫もつかないな。)
父性的な矜恃の姿勢と、暖かいまなざし、それが山上という作詞家の品格となって表れています。
それで、森田公一の曲ですが、少しだけ時代を感じさせますが、オーソドックスなセレナーデになっていていい曲です。
題材的にはフォークルの北山修:作詞、加藤和彦:作曲の【あの素晴しい愛をもう一度】(1971)と似ていますが、北山の歌詞には山上のような禅的理念は見られない。
あちらの歌は結婚する友人に贈った歌ですから、意味合いが違います。
そして当時の若者以降の人たちには、山上路夫が持っているような人格や倫理観、今風に言えば品格ですか、そういうものが失われていますので、「あの素晴しい愛をもう一度」の方が受けるのでしょう。
曲調も、より明るい後者の方が好まれるようになっていく時代の変化があります。
カッチリと組み立てられた曲よりも、軽快な3フィンガーギターのフォークが受ける。
それで、山上路夫の格調ある歌詞内容、森田公一のカッチリと組み立てられた曲、
これにピッタリなのはやはり石川ひとみです。
歌手石川ひとみは、一つ一つの音程が正確ですし、言葉がくっきりと発音される。
高音の抜けもすばらしいです。
そして、それ以上にこの歌を本気で歌ってしまえる歌手は石川ひとみしかいない、と私は思う。
男が思い描く理想的な女性像というものは、とりもなおさず男の身勝手な願望ですから。
天地真理がこの曲を歌ったのは23歳、「ちょっと、カワイコ過ぎるかな...」と感じるでしょう。
ごく普通に歌ってもカワイコになってしまうひっちゃんですと、本気で歌えるはず。
浜田朱里の場合は少し雰囲気を変えたいという意図があったのかもしれませんが、上のお二人よりも哀感を込めて歌っています。山上の意図を、汲んではいないようです。
悲しみの歌にしてしまえば、すがすがしい山上ワールドではなく、歌謡曲によくある歌です。
それでも、曲が良いのは変わりませんけど。
天地真理、浜田朱里と聴いてみましたが、やはり石川ひとみは優等生の申し分ない歌です。
ほんとうに教科書のようにメリハリをつけて歌うので、聴いていて気分がすっきりする。
優等生過ぎて、個性を感じにくいほどですけど、それが石川ひとみですから。
天地真理、浜田朱里は、足りないところを個性的な歌い方でカバーしているから、それぞれ熱心なファンは満足でしょう。
イイ歌だね。石川ひとみはカバー曲の女王様に列席されるよねェ。
テニス部の石川ひとみ、「あなたを待つのォー、テニスコート」なんて、心の中で口ずさんでいたのかもしれません。(美和中学2年の時に天地真理「恋する夏の日」リリース)
『まちぶせ』のイメージとは大違いです。
でも白雪姫のおネー様と、くるみ割り人形ひっちゃんなら、元旦の晴れた雪景色のようだな。
キャンパスライブ早稲田で、ひっちゃん感激のご対面を果たしますが、この時は天地真理が再々デビューの時ですね。
女性友達の家で、初めて「水色の恋」のレコジャケを見たとき、「天地の真理」!って、どんな歌詞なのだろう?と、非常に興味を持ちました。
恥ずかしい...。精神世界にどっぷりの青年時代でしたから。
(釈由美子のタレント本を見たときは、釈尊の姓を名乗るからには、相当な女性教祖(仏教の)なのだろう、と勘違いしたくらい芸能界音痴でした)
そのお友達は「こんどデビューする歌手なのよ」とさりげなく言ってくれましたので、レコードを手に取ってみるとB面のタイトルではなく、A面「水色の恋」 (歌手)天地真理だったのですねー。
あまりにも意味がありすぎる芸名でしたから、私はその意味性に惹かれて、歌詞のタイトルだと...
その後は桜が満開の風景のように、天地真理大フィーバーで、朝から晩まで天地真理、やり過ぎでしょうね。
その彼女の最後のヒット曲と言ってよい「想い出のセレナーデ」をひっちゃんが歌う。感慨深いものがあるでしょうね。真理ちゃんのようになりたいと夢見た石川ひとみ、デビューしたときには真理ちゃんはもう芸能界から姿を消していた。
山上路夫はやはりロマンチストですけれども、それだけにとどまらない男性的知性、言葉をかえれば論理的一貫性というものを感じます。この歌詞は山上の抱く女性像が投影されたものであるけれども、いささか理想化された女性像ですね。
この歌詞を女性の心情だと解釈している人が多いようですが、山上的理想の女性像ですね。
「また眠れなくて、ひとり窓に寄りそえば」
これは、失恋のやるせなさや悲しみを意味してはいないと思う。
「あの坂の道で 二人言ったさよなら」
「今日も星が とてもきれいよ」というところに、それが表れています。
日本人のウェットなメンタリティーからすると、悲しいこころでは星も泣いて見え、夜空は春霞がかかってしまうものです。
山上はそうは書かず、星がとてもきれいよと書いている。女性の心情ではありえないでしょうね。
もともと、女性は散々泣きおえてしまうと、終わった恋をあれこれ回想したりしないものですけどね。
追憶にむせぶのは意外ですが男性の方です。山上は男としての自分が理想とする女性像(厳密には女性の別れ)を描いています。そして、それを歌う歌手があくまでも明るい天地真理だった。
それで、この歌詞のキーワードになるのは、「あなたのあの胸」という表現ですね。
この女性はふっきれているのですよ。「何故に今はとどかないの あなたのその胸に」とは歌わない。「あの胸に」ですから、距離感があります。決して未練たらたらではない。
そういう思いではなく、響き合っていた2人のこころは、通じなくなってしまったという、冷めた思いです。
「あの」も「その」も、大して違いがないと思う方もいるかもしれませんが、傍証として指摘すれば、
「窓に咲いた 花もないのよ」というフレーズ。
「あなた」は、私と別れてどこかの街に引っ越していったわけではない。以前と同じようにそこに住んでいるわけ。
「あなたの家が見えてくる」のだけど、私とではなく、別な女性と結婚あるいは一緒になり、そこに住んでいる、ということです。
考えてみれば、残酷にして哀しい風景だと、思うよ。それにもかかわらず...
歌のメロディーに乗って通り過ぎてしまいそうですが、ここは「花を持って私が訪ねて行かなくなった」(なぜなら、あなたは別の女性と暮らしているから)...
ということを、山上らしくさり気なく表現しているわけだね。
淡々として、ウエットなものはないし、修羅の心も見られない。山上が女性に投影する品格なのだと思う。
この歌を聴いてすぐに連想するのは、
森山良子「恋人」ですね。この歌を意味的に受けて成立しているな、と。
(「恋人」は【海のようなやさしさで】の中程で取り上げました)
森山良子 【恋人】 (1969)
作詞: 山上路夫/作曲: 村井邦彦
愛し合った 二人のため 永久(とわ)の命だけが欲しい
あなたの腕に 腕をからませ 時の流れを止めてみたい
それがかなわぬことならせめて 悔いない今を生きるの
人生、出会いは別れの始まりですから、せめて出来ることは「悔いない今を生きる」ことだけなんだよ、という禅的な「一期一会」のような悟りが山上の人生哲学にはあるのでしょう。
その歌を、憂い声の第一人者たる森山良子が歌った。
「人はなぜに死んでゆくの」と、叫びに近い声を張り上げ、
「悔いない今を生きるの」と諦観を漂わせて淡々と終わる。
ですから、それを意味的に受けている「想い出」系のこの歌は、
きらめくような ひとときを
あなたと生きて 来たことを
これからも忘れないわ いつも胸に抱いて
という表現になる。
山上路夫のこころの中では、当然の帰結です。首尾一貫しているものがある。
この歌は(あのとき)悔いない今を生きてたわ、ということですね。
明るくて、ウエットではない天地真理にふさわしい歌です。
ですから、繰り返し歌われる
あんなに素晴らしい愛が
何故に今はとどかないの あなたのあの胸に
という言葉が、少しも涙で曇っていない。
「今日も星が とてもきれいよ」という表現にそれが、女性らしい柔らかさを持たせつつ格調高く表象されていると思う。
論理的な一貫性が、こころの揺れを制御していると言ってよい。
けれども、それだけならばどこか冷たい厳しさを感じもするだろう。
しかし、山上路夫がヒューマニストだと言われるゆえんは、
※ あなたのもとへ いそいそと
季節の花を かかえては
訪ねたの
このかわいらしい歌詞ね、
「それでいいんだよ」という山上の父性的な温かいまなざしを感じます。
この曲は、山上路夫が理想化する「女性の別れた後の姿」が描かれていますので、男性ファンはグッと来るはずです。
(別れた元夫の悪口を言っている、元アイドル女優さん...もう虫もつかないな。)
父性的な矜恃の姿勢と、暖かいまなざし、それが山上という作詞家の品格となって表れています。
それで、森田公一の曲ですが、少しだけ時代を感じさせますが、オーソドックスなセレナーデになっていていい曲です。
題材的にはフォークルの北山修:作詞、加藤和彦:作曲の【あの素晴しい愛をもう一度】(1971)と似ていますが、北山の歌詞には山上のような禅的理念は見られない。
あちらの歌は結婚する友人に贈った歌ですから、意味合いが違います。
そして当時の若者以降の人たちには、山上路夫が持っているような人格や倫理観、今風に言えば品格ですか、そういうものが失われていますので、「あの素晴しい愛をもう一度」の方が受けるのでしょう。
曲調も、より明るい後者の方が好まれるようになっていく時代の変化があります。
カッチリと組み立てられた曲よりも、軽快な3フィンガーギターのフォークが受ける。
それで、山上路夫の格調ある歌詞内容、森田公一のカッチリと組み立てられた曲、
これにピッタリなのはやはり石川ひとみです。
歌手石川ひとみは、一つ一つの音程が正確ですし、言葉がくっきりと発音される。
高音の抜けもすばらしいです。
そして、それ以上にこの歌を本気で歌ってしまえる歌手は石川ひとみしかいない、と私は思う。
男が思い描く理想的な女性像というものは、とりもなおさず男の身勝手な願望ですから。
天地真理がこの曲を歌ったのは23歳、「ちょっと、カワイコ過ぎるかな...」と感じるでしょう。
ごく普通に歌ってもカワイコになってしまうひっちゃんですと、本気で歌えるはず。
浜田朱里の場合は少し雰囲気を変えたいという意図があったのかもしれませんが、上のお二人よりも哀感を込めて歌っています。山上の意図を、汲んではいないようです。
悲しみの歌にしてしまえば、すがすがしい山上ワールドではなく、歌謡曲によくある歌です。
それでも、曲が良いのは変わりませんけど。
天地真理、浜田朱里と聴いてみましたが、やはり石川ひとみは優等生の申し分ない歌です。
ほんとうに教科書のようにメリハリをつけて歌うので、聴いていて気分がすっきりする。
優等生過ぎて、個性を感じにくいほどですけど、それが石川ひとみですから。
天地真理、浜田朱里は、足りないところを個性的な歌い方でカバーしているから、それぞれ熱心なファンは満足でしょう。
イイ歌だね。石川ひとみはカバー曲の女王様に列席されるよねェ。
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