石川ひとみ「裸足でダンス」 (1984.12.5日)
作詞:竜真知子、作曲:鈴木キサブロー、編曲:新川博
ひと言で言えば、恋のニルヴァーナ(涅槃:ねはん)。恋の炎を燃やし尽くした情景を石川ひとみ的アンニュイで歌い上げている。
「アモーレ」はイメージ的には大変身でしたが、歌の内容そのものはラテン系(イタリア)の物語仕立てで、洋画のシーンを見るような洒落たものになっている。
それに対して、「裸足でダンス」はビジュアルはおとなしくなっているけれども、意味的なものは石川ひとみが歌い得るMax アダルト領域に突入しているだろう。
「裸足でダンス」は恋の最終章を表象していますが、完全に燃え尽くしたわけではない。
そのわずかに残る「恋の残り火」を、ひとりダンスを踊り疲れるまで踊って、感情的な涅槃に至る。
女性的な「感情の処理プロセセス」をダンスという行動に託して、象徴的に表現しています。
石川ひとみの過去の歌では「セシルの部屋」を意味的に受けて、書かれたものだと思います。
これまで取り上げてきた作詞家の中には、前の歌の内容と相容れない歌詞を書いている人もいましたが、竜真知子さんはひとみちゃんの過去の歌詞をきちんとチェックしているのではないかと、思う。
それで、シングルではリリースされなかった「セシルの部屋」について、少し触れながら、「裸足でダンス」の歌詞に言及していきます。
石川ひとみ 『セシルの部屋』 (1981)
作詞:武藤尚子、作曲:芳野藤丸、編曲:大村雅朗
黄昏れて(い)く古いシャトウ 晩さん告げる鐘の音...
...そんな気分で、キャンドルに火をともす。
恋しい人、来ない夜は 一人きりのこの部屋で
秘密めかして 時を過ごすセシル
燃えるようなワイン飲み干し
服を全部脱ぎ捨てて
鏡に映るもうひとりのわたし
熱い胸抱きしめる
まだ少女のままの今日と、女になる明日の間
恋しい人に満たされて
別れにも憧れている
歌詞からおわかりのように、セシルというのは大人になりかけている少女の、恋へのあこがれと同時に別れの切なさにさえも心ひかれている、という複雑に揺れる内面を表象しています。
(「まだ少女のままの今日と」の部分、「顔と」という風に聞こえます。私は長い間、そういうつもりで聴いてました。ひっちゃん歌詞間違ってレコーディングしていないよねェー?)
このタイトルはいうまでもなく、フランソワーズ・サガンの小説『悲しみよこんにちは』のヒロインである17歳の少女セシルからとっているのだと思います。
武藤尚子的女性感覚に意味的な深みを与えているのは、こういった素養なのだろう。
『悲しみよこんにちは』という小説は、私がよく例える「少女の残酷さ」をもつ少女セシルの感傷と好奇心、愛情を独占しようとする直線的な思い、大人が持つ完成された内面世界への反撥など、いかにもフランス的なクリティシズム(批評精神)を含んだ微妙な心理を描いています。
左の絵の少女、このショートカットですが、セシル・カットと呼ばれています。
「ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名前をつけようか、私は迷う。」
...17歳から18歳になろうとしている大人少女の言葉です。惚れてしまう。
「僕は20歳だった。それが人の一生でいちばん美しい年齢だなどと、誰にも言わせまい。」
...という、ポール・ニザン「アデンアラビア」の言葉と共に、青春宣言の双璧をなすセリフではないだろうか。
ついでなので、映画のシーンも紹介しましょう。

真ん中、ジーン・セバーグ演ずるセシルです。
左がMyle`ne Demongeot のエルザ、セシルの父の若い愛人役。
右が新しい愛人として現れ、セシルと衝突するアンヌ(デボラ・カー)
題名は詩人・ポール・エリュアールの詩の一節から採っているようですが、エリュアールの詩集は今手元にありませんので、現在確認は出来ません。彼は、以前書いたトリスタン・ツァラのダダに参加して、やがてアンドレ・ブルトンの最初の「シュールレアリズム宣言」に参加した詩人です。
...と書いてきて、「セシルの部屋」に関することを書きすぎてしまったと気づく...
実は、石川ひとみの5番目のLP「まちぶせ」は、セシル・モードで制作されているのだと思っているノダ。ひとみちゃんの澄んだ高音の伸びが、「裸足でダンス」との対比を際だたせています。
今、聴き直しても、私がこのLPコピー・テープを聴いて至福の時間を味わった、というのは「ひっちゃんによる、セシル的世界」が気に入っていたからなんだなと気づきました。
石川ひとみ 『裸足でダンス』
足もとに黒いドレスを脱ぎすて
忘れるわ あなたの香り
今日までの 夜毎のたわむれさえ
めざめれば 夢のうたかた
彼女と何があったのなんて
今はもう 知りたくないのよ
そうよ 裸足でダンス
今宵はひとり トワイライ・トダンス
哀しい場面は みんないくつも
知りすぎているから
裸足でダンス
明かりは消して トワイライト・ダンス
ドメイン分類で行きますと、石川ひとみの歌の中ではもっともアダルトで、まみれ系を突き抜けている。
東洋的な陰陽の見方をすれば、陰極まって陽となるという展開が待っているはずです。
次にくるのは突き抜けた明るさなのだ、という筋道です。
「哀しい場面は、みんないくつも知りすぎているから」という歌詞が意味的なメインですね。
妖精の旅立ちであった少女期を通り過ぎて、愛と失恋を何度も繰り返して、一本芯の通った大人の女に変わる通過儀式、それが「裸足でダンス」という歌が象徴するものなのだと思う。
そう考えると、次に続く曲は「夢回帰線」ではどうも、収まりが悪い。
ベストオーダーは、「アモーレ」 「夢回帰線」 「裸足でダンス」ではないかな。
そこで、初めて「秘密の森」が陰を突き抜けて、「吹っ切れた陽」の始まりの歌として、存在価値を見いだせると思います。新しい始まりの意象を帯びる。
「裸足でダンス」はひとことでいえば涅槃的な精神状態を表しているな、と書いて、この曲の半年前にショッキングな最期を遂げた沖雅也の「涅槃で待っている」という遺言を思い出しました。
ただ単に、「セシルの部屋」の続編なんだと思って聴くだけで良いでしょうね。
女性は、男のように「自分の殻に閉じこもることによって、心の痛手が消えていくのを待つ」という行動はほとんどなく、感情をすっかりはき出さなければ気が済まない。
踊り疲れるまで、踊って、数日もするとすっかりケロッとしているというところが、女性の弱そうで(生物学的には)強いところです。
コメントする