『秘密の森』 魔法の消失と少女世界の回復

  『秘密の森』 というタイトルは童話的であるゆえに表象性に富むものとなっている。
 岩室先子さんは、ドラゴンボールZのイメージソングを多数手がけていたりして、想像力派なのかなと思います。

  それでいて、女性歌手の歌は少女らしい気持ちを前面に出しますので、この時期に石川ひとみが岩室先子の歌詞を山田直毅作曲で歌うということに、感慨深いシンクロニシティーを感じます。
  
 『秘密の森』は岩室先子の想像力の産物ですので、伝承的おとぎ話とは別物だと理解した上で、なおかつ彼女の意識の基層にあるであろう「おとぎ話的寓意」について触れておきたい。
 日本語で歌詞を書くということは、日本的な文化を否応なしに背負うことになるからだ。

 心理学的に見ますと、森というのは無意識の世界の象徴とされています。
 森と湖あるいは海は無意識を意味していると。

 おとぎ話の世界ですと、人は森の近くに住んでいて、昼間は柴刈りにいったり薪を拾ってきたりするけれども、夜は鬼や魔法使いが本来の姿を現す恐ろしく未知の世界となる。

 そして多くの場合、森に入って径に迷ったり、雷雨に見舞われるなどの偶然から木の洞や木陰で休息をしている間に眠り込み、目が覚めてみると夜になっており、そこは魑魅魍魎の跋扈するこわい世界に変貌している。

 簡単に言ってしまえば、(悪い)夢を見ているような光景、それが無意識の世界だということです。
 
 人は精神的に成熟していくと、この無意識の世界に心を開いて直視し、表層意識から遠ざけてきたものや、それと気づかずにいたものと対峙していくようになります。

 無意識の世界に閉じ込められているのは邪悪なものばかりではなく、人が自立していく過程で自立と引き替えに失っていった「少女性」の世界も押し込められ、隠されているわけです。


 「秘密の森」の歌詞ですが、どのような過程で成立したのかは分かりませんが、私が感じるのは石川ひとみの心境にはまりすぎといえるほど、ジャストインタイムだなと。


 石川ひとみは自分の少女性を意識して押し殺すようにして大人の女に変わろうとした。
 誰もがそうするように、精神的な自立を果たそうとした、といってよい。

 ところが、よい子のひっちゃんのまま大人になったために、本来は成熟期の課題であるシャドーにも悩むことになったのではないだろうか。

 これは彼女が遠ざけてきた無意識世界に心を開こうとするようになったからでしょうね。

 そうすると、抑圧し無意識世界に閉じ込められた少女世界も(顕在)意識の上に収まるべき居場所を求めてくる。
 言い換えれば、失ったものへの郷愁にも似た空虚感が強くなる、ということです。


 心理学者のユングは、シャドーと対峙して超克するという成熟への課題は、そのような(無意識領域に)押し込められ、表面的には忘れ去られた世界を取り戻すことにより、精神的なバランスをとり内的な健全さを得ることだ、という。

 歌手石川ひとみは、この「秘密の森」を歌うことによって、無意識世界に封じ込めていた少女世界を回復していく。
 あるいは、他の理由で少女世界を回復するきっかけを得て、この曲が「本当に歌いたい歌」だと思えるのか。


 「ふざけ合っては夢見てた二人」の子どもは、この時期の石川ひとみにとっては「ただの子ども」ではなく、大人の心に潜んでいる「内的子ども」という意味があるだろう。

 ユングはこれを元型的子ども(プエル)と命名しています。

 石川ひとみはこれを「大人の女性が持っている少女性」といっていました。
 「そういうものが表現できたらいいな...」と。

 ですから、これを「子どもっぽい」と解釈したり、「子どもじみた歌」とマイナスイメージで評するのは、確かに読みが浅いと言わざるを得ないでしょう。
 石川ひとみの心に達してはいない、ということになるのだろう。


 石川ひとみがあえてこの歌を歌うのは、「自分の殻を破って解放した無垢」、あるいは「解放された少女性」というものを自分のファンに伝えたかったのかと、思う。

 石川ひとみが心の中に保ち続け、時には押し殺してきた子ども時代の「無垢なもの」が再生されたという私的な理由があるのかもしれません。

 この歌では、歌手石川ひとみは純粋に歌う喜びを全身に感じながら歌っているようだ。
 文字通り、ふざけ合っては夢見てた二人のような、喜びと無垢な気持ち...。

 それで最後に、なぜ石川ひとみは無意識世界に閉じ込めたはずの少女性を再生させ、自然体になることが出来たのか?という疑問なのですが...

 じつは、すでにひっちゃんがサラリと言っているのではないかな。
 
 「恋とか愛って、初恋でも何回目でもときめきの気持ちって変わらないと思うのネ...」
 「恋とか愛って」と距離を置いた言い方をしていますが、本当は「恋をすると」ということなのだろう。


 石川ひとみの歌の基調は「恋をして、素直に自分の気持ちが出せずに後悔する」というパターンだと以前に書きましたが、ひっちゃん自身はただ素直に自分の気持ちを伝えたい」という人なのだと。

 「いちばん好きだったけど あの子にいつも気持ちが届かず」...

 今になって、いちばん好きだったのはこの人だったと思えるようになる...それは一番自然に振る舞えて、一番自然におつきあいが出来る人ということなのでしょう。


 歌手石川ひとみは恋する気持ちを通して、自然性あるいは本来のじぶんを取り戻すきっかけを得た。
 恋をした、ということだな。


 それで「ありのままやればいい」と思い至ることによって、外面的な事がらも直視し、さらには虚飾(ペルソナ)やシャドーの意識とも折り合いをつけたのだ、と考えられる。

 端的に言えば、「悪びれず、ありのままに」自分の姿や欠点をも受け容れて「自分らしくありたい」と。


 そのように決意したときに、それまでの石川ひとみを呪縛していた歌手という人気商売にまつわる魔法が解けたのではないか、と私は想像しています。

 こうあるべきと自己規制していた、あるいはそう求められていると感じていた呪縛が消失してしまい、
 目の前にあるのは恐ろしいものが潜んでいたりする暗闇の森(無意識世界)ではなく、
 少女性が息づく秘密の森だった、と。

 (このような展開の童話は世界中にあるのだけれど、「成熟と喪失と再生」という問題は、人類共通の問題なのだ、ということを示唆していると思う。)

 そしてそれを見ているのは、アイドル歌手の石川ひとみではなく、
                  背伸びして大人の歌を歌う石川ひとみでもなく、
                  虚飾をまとってプロぶったりする石川ひとみでもなく、

 気に入った歌を歌うのが好きで、歌うことが何より楽しいと思う石川ひとみだった。
 中学生時代の石川ひとみに印象が似ているのは、精神的な波動がそうなっているからなのでしょう。

 もはや彼女は、自分がそれまで一所懸命やってきた努力に対する世間的な評価とか、賞賛とかにとらわれず、純粋に歌う喜びを味わう人になっていく。

 それが、石川ひとみが『秘密の森』について、「もっと深いものがあるのに...」と訴えていることの、わたし的な理解です。

 このカテゴリーは「プロデュース」に関する考察です。

 歌手石川ひとみや作詞・作曲者のプロデュースとされるこの曲について、一番重要な役割を果たしている石川ひとみの気持ちにより深くアプローチして、一連のプロデュース問題を考える手がかりとしています。
 歌の鑑賞記ではないということを明確にしておきたいと思う。

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