石川ひとみ『まちぶせ』の歌詞に関して、ちょっと誤解されやすい問題点を取り上げておきます。
荒井由美の表現はイメージが明瞭ですので、良い歌かそうでないかは、ひとえに物語的展開の良し悪しに関わってくるわけです。もちろん音楽性や石川ひとみの歌唱力は問題ないわけですから。
荒井由美の表現はイメージが明瞭ですので、良い歌かそうでないかは、ひとえに物語的展開の良し悪しに関わってくるわけです。もちろん音楽性や石川ひとみの歌唱力は問題ないわけですから。
ところが、前回指摘しましたように、この歌詞は荒井由実的二重視点の変換に何やら意味がありそうだ、と。
微笑み見つめ合う 見覚えある二人
気のないそぶりして 仲間に加わった
テーブルをはさんで あなたを熱く見た
この部分の意識のあり方に、ちょっとどうかな...というものがありますね。
「微笑み見つめ合う 二人」の世界というのは、文字通り「二人の世界」なわけです。
これは誰でも分かると思いますが、「二人の世界」状態になっている男女がいて、そこに無神経に割り込む人ってまずいないでしょう。
現実の話とすれば、単に空気が読めないと言う話ではなく、ほとんど狂気という精神状態なのだといってよい。
3人目の人がそこにいれば、「二人の世界」はとたんに消え失せて、「共同幻想」の世界に変貌してしまう。対幻想の意識と、共同幻想の意識とは両立しない、相容れないものです。
LoveLove 意識の間には、1ミリの隙間もありませんので、そこに同級生かなんかの「私」が、いかに気のないそぶりをして仲間に加わったとしても、「あの娘」はそれを受け入れませんよね。
「早くあっちに行って!」という迷惑そうな態度顕わで、その場の良い雰囲気がぶち壊しになるはず。
お相手の「あなた」だって、LoveLove の間に割り込んできて「熱く見つめる」女の子が現れたりしたら、その狂気性にひいてしまうでしょう。
そのような状況では、「あの娘」は彼と見つめ合うどころではなく、「私」の方を非難の目で見つめているでしょうね。
その状態で「あなたを熱く見た」りしたなら、隣にいる「あの娘」が激昂して、修羅場となるはずだな。
そういうことが起こらずに、この歌詞のようなシチュエイションが成り立つためには、「二人の世界」がまだLoveLove ではないのか、あるいはもうすでにLove(ヒュー)Love の間にすきま風が吹いていて、心理的な距離感を感じている終わりかけた関係、ということになる。
まあ、すきま風が吹いていなくとも、雑談をしている光景とすれば、「微笑み見つめ合う」と表現するほどのことはない。
「あの娘が急になぜか キレイになったのは、あなたとこんな風に 会ってたからなのね」
...という歌詞からすると、少なくとも後者ではない。「あの娘」は恋し始めて一番熱い時だ。
とすれば、「あなた」という男の子は「微笑み、見つめ合っている」けれども、実は本気ではない、どこか覚めている...のか?
「石川ひとみの歌に出てくる男って、悪いヤツが多いよねー」という誰かの言葉を思い出してしまいました。
けれども、そのような微妙な時期あるいは関係の時の女の子は勝負に出ていますので、「私」が「あの娘」を無視して「あなたを熱く見る」ようなことをしたら、目も当てられない光景が展開、、されるでしょう。「あの娘の目を盗んで...」というようなことは、にらみつけられていてできそうもない。
ですから、この『まちぶせ』のような情景は、ありそうでいてあり得ない。そういう世界、なのだと理解した方がいいと思う。
この『まちぶせ』の歌詞が描くこの情景は、三木聖子の実体験談に、荒井由実が心の中で思い描いた個幻想の描写がオーバーラップした二重視点を持っている、ということです。
つまり、荒井由実が描いた幻想絵画のような世界が被さっていて、体験談のリアルなイメージを持ってはいるけれども、表現されたものは現実的なリアルさではなく、視覚的なリアルさだね。
いってみれば、三木聖子の生体験が、荒井由実の中で昇華されて、べったりの自己表出ではなく、即かず離れずの詩的自己表出になっている、ということ。
幻想絵画という言葉は大げさかもしれないけれど、解りやすくたとえると劇画調に描写している、と。
具体的にいえば、みなもと太郎調、とかね。
絵を見れば判りますが、女性はあくまでも劇画調にきれいに描き、男は要所ではゴルゴ13ふうになるけれど、普段は漫画チックに描かれるのだ。
シリアスのように見えて、本質はコミックまたはその逆という、実にユニークなもので、この漫画については泉麻人が時代背景を書いていますので、そちらを参照してください。
「イズミ少年の漫画日記」(泉麻人)
荒井由実も読んでいたろうな、と思う。
参照したいのは、この部分です。
劇画調とコミック調の二重表現を、あえてネタばらしのように取り扱っています。
裏側で楽しんでいる漫画家みなもと太郎の存在をチラ見えさせている。
(余計な解説ですが、左の女性セブリーヌちゃん、昔の水洗トイレの底からスパイカメラで激写したショットです。今なら発禁ものですけど...。
貯水タンクが高いところにあり、鎖で吊り下げてある握りを引っ張ると、水が流れる方式。
時々、鎖が切れるんだよね)
このように、作中に作者の存在を織り込む手法は、古くはローレンス・スターンの『トリスタラム・シャンディーの生活と意見』などの小説?や、ヒチコックの映画など、けっこうあります。
フィックションを書く場合、近代以前の作品のような神の視点で書くのか、私小説的な私の視点で書くのか構成を考えるのが第一歩です。
神の視点で書いているのに、ふと私の主張みたいな部分を作ってしまえば、そこが破綻しているということになる。
ところが、現代的な実験小説とかは、そういう前提を否定しているものも少なくない。
荒井由実の『まちぶせ』歌詞に見られる二重視点の変換は、決して無意識になされたものではなく、方法論として意識してやっているな、と思う。
みなもと太郎調の、シリアスと漫画チックが同居している劇画の雰囲気。
あるいは、
あたかも写実的現実のようなリアルなイメージをもった、シュルレアリズム。
どちらにしても、だまし絵のような二重性、あるいは錯覚構造を持っている、ということだね。
淡々と、 仲間に加わった
あなたを熱く見た
...と並列にフレーズを並べることで、距離感=対象化する視点を示唆し、「これは狂気を表現しているのだ」という、心的な間をとっている。
サルトルの用語で言えば、即自的ではなく対自的姿勢を堅持していると。
これは、荒井由実の歌詞の重要な意識構造なので、基本的に押さえておかねばいけない点です。
この歌にリアリティーをもって歌って欲しいと考えるなら、また別のタイプの歌手がいいはずです。
そのようなことを考えると、石川ひとみ版を純愛路線だとすれば、荒井由実としては想定外のはず。
大人の分別が十分でない青春ソングだとすれば、石川ひとみのかわいさで通ってしまう。
松任谷由実のような年代ならば、大人の遊び心をもった「みなもと太郎的世界」の歌として過不足ない。
それで、この歌をリアリティーを持って歌えるのは...
「あんたたち、何いちゃついてるのよ。
でも、あんたっていい男ね、うふ!」 などと、言えるタイプの人。
そう、ゲイの方でしたら、イイかナーなんて...。
これはおばさんでもやれなくはないですけど、きれいでセクシーなおばさんでないとレンアイにならないよねェー。
微笑み見つめ合う 見覚えある二人
気のないそぶりして 仲間に加わった
テーブルをはさんで あなたを熱く見た
この部分の意識のあり方に、ちょっとどうかな...というものがありますね。
「微笑み見つめ合う 二人」の世界というのは、文字通り「二人の世界」なわけです。
これは誰でも分かると思いますが、「二人の世界」状態になっている男女がいて、そこに無神経に割り込む人ってまずいないでしょう。
現実の話とすれば、単に空気が読めないと言う話ではなく、ほとんど狂気という精神状態なのだといってよい。
3人目の人がそこにいれば、「二人の世界」はとたんに消え失せて、「共同幻想」の世界に変貌してしまう。対幻想の意識と、共同幻想の意識とは両立しない、相容れないものです。
LoveLove 意識の間には、1ミリの隙間もありませんので、そこに同級生かなんかの「私」が、いかに気のないそぶりをして仲間に加わったとしても、「あの娘」はそれを受け入れませんよね。
「早くあっちに行って!」という迷惑そうな態度顕わで、その場の良い雰囲気がぶち壊しになるはず。
お相手の「あなた」だって、LoveLove の間に割り込んできて「熱く見つめる」女の子が現れたりしたら、その狂気性にひいてしまうでしょう。
そのような状況では、「あの娘」は彼と見つめ合うどころではなく、「私」の方を非難の目で見つめているでしょうね。
その状態で「あなたを熱く見た」りしたなら、隣にいる「あの娘」が激昂して、修羅場となるはずだな。
そういうことが起こらずに、この歌詞のようなシチュエイションが成り立つためには、「二人の世界」がまだLoveLove ではないのか、あるいはもうすでにLove(ヒュー)Love の間にすきま風が吹いていて、心理的な距離感を感じている終わりかけた関係、ということになる。
まあ、すきま風が吹いていなくとも、雑談をしている光景とすれば、「微笑み見つめ合う」と表現するほどのことはない。
「あの娘が急になぜか キレイになったのは、あなたとこんな風に 会ってたからなのね」
...という歌詞からすると、少なくとも後者ではない。「あの娘」は恋し始めて一番熱い時だ。
とすれば、「あなた」という男の子は「微笑み、見つめ合っている」けれども、実は本気ではない、どこか覚めている...のか?
「石川ひとみの歌に出てくる男って、悪いヤツが多いよねー」という誰かの言葉を思い出してしまいました。
けれども、そのような微妙な時期あるいは関係の時の女の子は勝負に出ていますので、「私」が「あの娘」を無視して「あなたを熱く見る」ようなことをしたら、目も当てられない光景が展開、、されるでしょう。「あの娘の目を盗んで...」というようなことは、にらみつけられていてできそうもない。
ですから、この『まちぶせ』のような情景は、ありそうでいてあり得ない。そういう世界、なのだと理解した方がいいと思う。
この『まちぶせ』の歌詞が描くこの情景は、三木聖子の実体験談に、荒井由実が心の中で思い描いた個幻想の描写がオーバーラップした二重視点を持っている、ということです。
つまり、荒井由実が描いた幻想絵画のような世界が被さっていて、体験談のリアルなイメージを持ってはいるけれども、表現されたものは現実的なリアルさではなく、視覚的なリアルさだね。
いってみれば、三木聖子の生体験が、荒井由実の中で昇華されて、べったりの自己表出ではなく、即かず離れずの詩的自己表出になっている、ということ。
幻想絵画という言葉は大げさかもしれないけれど、解りやすくたとえると劇画調に描写している、と。
具体的にいえば、みなもと太郎調、とかね。
絵を見れば判りますが、女性はあくまでも劇画調にきれいに描き、男は要所ではゴルゴ13ふうになるけれど、普段は漫画チックに描かれるのだ。シリアスのように見えて、本質はコミックまたはその逆という、実にユニークなもので、この漫画については泉麻人が時代背景を書いていますので、そちらを参照してください。
「イズミ少年の漫画日記」(泉麻人)
荒井由実も読んでいたろうな、と思う。
参照したいのは、この部分です。
劇画調とコミック調の二重表現を、あえてネタばらしのように取り扱っています。裏側で楽しんでいる漫画家みなもと太郎の存在をチラ見えさせている。
(余計な解説ですが、左の女性セブリーヌちゃん、昔の水洗トイレの底からスパイカメラで激写したショットです。今なら発禁ものですけど...。
貯水タンクが高いところにあり、鎖で吊り下げてある握りを引っ張ると、水が流れる方式。
時々、鎖が切れるんだよね)
このように、作中に作者の存在を織り込む手法は、古くはローレンス・スターンの『トリスタラム・シャンディーの生活と意見』などの小説?や、ヒチコックの映画など、けっこうあります。
フィックションを書く場合、近代以前の作品のような神の視点で書くのか、私小説的な私の視点で書くのか構成を考えるのが第一歩です。
神の視点で書いているのに、ふと私の主張みたいな部分を作ってしまえば、そこが破綻しているということになる。
ところが、現代的な実験小説とかは、そういう前提を否定しているものも少なくない。
荒井由実の『まちぶせ』歌詞に見られる二重視点の変換は、決して無意識になされたものではなく、方法論として意識してやっているな、と思う。
みなもと太郎調の、シリアスと漫画チックが同居している劇画の雰囲気。
あるいは、
あたかも写実的現実のようなリアルなイメージをもった、シュルレアリズム。
どちらにしても、だまし絵のような二重性、あるいは錯覚構造を持っている、ということだね。
淡々と、 仲間に加わった
あなたを熱く見た
...と並列にフレーズを並べることで、距離感=対象化する視点を示唆し、「これは狂気を表現しているのだ」という、心的な間をとっている。
サルトルの用語で言えば、即自的ではなく対自的姿勢を堅持していると。
これは、荒井由実の歌詞の重要な意識構造なので、基本的に押さえておかねばいけない点です。
この歌にリアリティーをもって歌って欲しいと考えるなら、また別のタイプの歌手がいいはずです。
そのようなことを考えると、石川ひとみ版を純愛路線だとすれば、荒井由実としては想定外のはず。
大人の分別が十分でない青春ソングだとすれば、石川ひとみのかわいさで通ってしまう。
松任谷由実のような年代ならば、大人の遊び心をもった「みなもと太郎的世界」の歌として過不足ない。
それで、この歌をリアリティーを持って歌えるのは...
「あんたたち、何いちゃついてるのよ。
でも、あんたっていい男ね、うふ!」 などと、言えるタイプの人。
そう、ゲイの方でしたら、イイかナーなんて...。
これはおばさんでもやれなくはないですけど、きれいでセクシーなおばさんでないとレンアイにならないよねェー。
今回は、荒井由実の作詞について書いていますので、石川ひとみ版『まちぶせ』を冷やかしているわけではないことをお断りしておきます。詩的表現の分析を、まじめにやっているつもりだよ。
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