陣営とは何か?大衆音楽のダイナミズム

  わたしがこのブログを始めたきっかけは「石川ひとみは『まちぶせ』だけの一発屋だ」という、きわめて粗雑なことをいう俗物口害に対して、きっちりと反論を示しておきたいということでした。

 物事を十把一絡げでレッテルを貼る粗雑な思考ではとうてい理解できないものを示すために、ことさら細かく分析した部分もありましたが、そのようなプロセスを経て見えてきたのが陣営というものです。

 ブログを再構成するにあたって、最初に提示したのが石川ひとみ陣営の問題であるのは、わたしの論拠はここにあるということを示すためですね。

 そういう時期に、松本隆の発言をテレビで聞いて、陣営の問題だけでは済まされないなと感じたわけですね。そこで見えてきたのが、表現としての石川ひとみ、一般化して言えば表現としての歌手ということです。

 わたしは最初から、歌手のプロデュース&プロモーションをマーケティングとして捉えていましたが、あまりあからさまに言いたくなかったことは「歌手は商品だ」ということです。

 新人歌手という素材に、求められる技能訓練をして、歌詞と曲・編曲を提供し、衣装・化粧・振り付け・演出を加味してイメージングをおこない、様々な媒体を通じてアッピールし、一つの販売プロジェクトを遂行していく...それがプロデュースということになります。
 聴衆あるいはファンのNeeds & Wants に応えて、いかに商品の魅力を高めアッピールしていくか、という売り方のうまい下手の問題であると。

 ですから、歌詞や曲・編曲などは、プロジェクトメンバー(陣営)の目的遂行タスク(役割遂行)なのだ、ということはしっかりと押さえておかねばいけないことです。歌手個人もメンバーの一人としてタスクを遂行すると同時に、そのプロジェクトの象徴的存在として振る舞うということになる。

 それをオブラートにくるんで言おうとして、プロフェッショナル論に置き換えて論議を深めてみましたが、それだけではカバーしきれないものがあります。
 『秘密の森』で、歌手石川ひとみは純粋に歌いたい歌を歌い楽しむ人になった、と書きましたけれど、それで石川ひとみはアマチュア歌手に戻ったのか?ということになりますからね。

 それで、松本隆が提示したもう一つの問題が大衆に信を置くということですけれど、最近中村とうようの本を読んで、この問題の起源に触れていますので、取り上げておきます。

 中村とうようは「図式的に言ってしまえば、農民の歌が民謡、貴族の音楽がクラシック、そして放浪芸人の音楽がポピュラー音楽ないし大衆音楽につながっていく」ということを『大衆音楽の真実』という本で書いています。

 「ミュージック・マガジン」の創始者であり、古今東西の音楽に精通している中村とうようの労作にケチをつけるつもりはありませんが、氏の論説の根底には階級闘争といったマルキシズムの色彩が濃いかなと感じるところが多々見られます。
 スパッと切り捨てる論旨は痛快ですけれど、貴族と大衆といった二分法では割り切れないものが切り捨てられているなと思う。

 あくまでも推測に過ぎないけれども、なかにし礼がシャンソンを捨てて歌謡曲に入っていったのも、石原裕次郎に誘われたという以上に、歌謡曲のご意見番中村の影響があったからではないだろうか。
 中村は日本のシャンソン歌手をさして「どこがどうと言えないくらいヘタクソなのだが...こういうのを、汚い声で、不吉な黒っぽい服に身を固めた50女が、情感も色気も何もない表情と仕草で、歌うのだから、ほとんど怪談の世界だ」などと、口を極めてののしっている。

 そういう状況でしたから、歌謡曲で仕事をしていた松本隆も、当然のことながら「ミュージック・マガジン」の中村の影響を受けているように思えます。ここは、きっちりと仕分けをしておくべきかなと思う。

 音楽であれ、絵画であれ、詩であれ、歴史的な集積は質的な上昇をもたらすのは当然のプロセスですね。
 
 現代絵画の巨匠であ るフランスのジャン・パゼーヌというひとは「画家は老人として生まれてくる。過去の重い(美術)遺産が彼を圧し潰し、あまりにも多くの巨匠たちが、彼の第一 歩を待ち伏せしてその歩みを妨げ、さらには、大自然が胸のむかつくほどの豊かさで彼に迫ってくるのだから」と述べています。

 よりよい表現を追求するというのは、知の本質的な働きですから、どうしても表現が次第に高度になっていき、大衆と遊離していくというのは宿命のようなものですね。

 中村とうようはクラシック音楽について「一口で言えば、クラシック音楽家は権力者の手先にほかならず、クラシック音楽は大衆抑圧装置以外の何物でもない」と書いている。
 なぜなら、「(指揮者を頂点とした)徹底したヒエラルキー構造を持つシンフォニー・オーケストラは、権力者が期待する社会構造の格好のモデルである、と。

 中村は、クラシック音楽に対して評価の低い大衆音楽の地位向上を目指しているために、このような歴史観を援用しているわけで、その意図を尊重するけれども、あくまでもある一面の解釈ですね。

 わたしに言わせれば、猿の世界にも厳然たるヒエラルキー構造はあるし、原始時代のホモサピエンスにだってヒエラルキー構造はあった。もっと下等動物の魚の世界だって、厳然としたヒエラルキー構造は見られる。

 知というものは、既知のものに新たな知を積み重ねる基本構造を持っていますので、「知」それ自体が上昇性を持っているといってよい。

 それと同時に、表現である以上誰かに向かって表現するという原初的なベクトルを持っている。子供の一人遊びは、やがて親兄弟や友達にそれを見せるというプロセスを経て、ほめられることが創作のモチベーションになっていくだろう。

  そのベクトルは、
  ・より多くの人に知ってもらいたいという方向に進むか...(下降性)
  ・たった一人でも分かってもらえたらいいという方向に進むか...(上昇性)
  ...という両極を持っている。

 そのようなダイナミズムの結果として社会構成の分布図みたいな傾向があらわれて、パレートの法則にも似た分布を示すわけですね。
 この法則は経済活動についての分析で得られたものですけれども、人の活動全般についても同様の傾向が見られるようです。8割の大衆と、2割のエリートみたいな構成傾向ですね。

 わかりやすく説明するために、わたしも図を用いて話を進めようと思います。
 文字通り図式的になりますが、文化あるいは知というものの本質的な仕組みを考えてみたい。

culture_dynamism01.gif わかりやすい例として、たとえば仏教の伝播みたいなものを具体例としてあげてみましょう。

 仏陀のように、当時のバラモンたちよりも遙かに高い認識を得た人が現れると、その影響力の強さに応じて周囲に弟子とか声聞・縁覚といった中心圏が形成されます。

 その求心力は、さらに遠くの辺境圏の人々を引きつける流れを生成していく。

 ここで、より高い境地を得ようとして修行を重ねてその文化的継承発展に寄与する一握りの人たちと、
 実践的あるいは現実的な大多数は、元の辺境圏に在家信者のような形で戻る流れと、
 ...大別して二つの流れが発生していくだろう。

 かりに、これを上層伝播と低層伝播と名付けましたが、人それぞれ、レベルもそれぞれの階調をなしているわけです。決して二分法では分けられない。

 我が国で言えば、最澄や空海は上昇伝播を担った先達であり、庶民レベルでは土俗信仰と結びついた仏教などは低層伝播と考えてよい。

 ところが、知には上昇していく往相過程と、実践的に現実の生活にコミットしていこうと下降していく還相の過程がある。
 たとえば江戸時代の禅僧である良寛の生き様は典型的な還相の仏教だったといえるだろうと思う。

 外国であれば、啓蒙などという大仰な言葉になってしまうけれども、いずれにしても庶民レベルで「高度な知の有り様」を伝えることになる。

 そうすると、辺境圏で低層伝播と啓蒙伝播が出会う(ぶつかる)ことになり、庶民の中から知的飛躍を遂げるものが現れて、辺境的派生文化を形成しつつ、エネルギーの増大とともに中心圏に逆輸入のような形でなだれ込んでいくことも起こってくる。

 上記のような構造は、文化の一つである音楽でも全く変わりがないだろう。


 発生的に見ると、歌謡の起源は精神活動と肉体活動に起源を求めることができます。
 精神活動の流れは言語行為を主として、個人的感情の発露・コミュニケーション・大いなるものへの畏敬というものを表現する方向に進み、主としてメロディーを多様に発展させた。

 肉体活動の流れは踊り行為を主として、食餌行動・生殖行動・労働行動に伴う音声表現の方向に進み、主としてリズムを多様に発展させた。

 わたしの考えでは、このような二つの傾向と、その属性をあげれば、ほとんどの音楽は一元的に整理できるかと思う。
 両者の流れがぶつかり合うところでは、さまざまな融合が起こり、豊穣な実りをもたらしてきたということになる。

kayoukyoku01.gif 肉体派の方は、人間の本能的行動に属するもので、世界中の民族音楽・ポピュラー音楽とか我が国の民謡とか様々な歌謡が分類されると思いますが、それをまとめるだけの時間がないので省略します。

 その属性を三分類に分けたのは、個的世界、恋愛・家族的世界、共同規範の世界という、「意識のありあり方」の分類に都合を合わせたものです。歌謡曲を扱うので、歌詞を考える場合に対応できるようにと。


 基本的にはこのように精神的営為から発生したものと肉体行為から発生したものということで、両者の要素の比重の程度で様々なバリエーションになっていくでしょう。


 クラシック音楽というのは精神活動的発生の系統にあり、上昇伝播の担い手がプロフェッショナルとして登場したのはバッハやヘンデルの古典派時代だったということですね。

 それに対して、大衆歌謡というのは低層伝播の歌曲であり、音楽的な上昇ではなく、技術的な上昇に眼目がおかれてプロフェッショナルな歌手が登場してくる。

 彼らは放浪芸人である場合もあるし、地唄や民謡の達人であったりして、大衆とは別世界を形成していくのだと思う。
 けっして、ある社会の外から入ってくる放浪芸人である必然性はなく、むしろ大衆社会から発生して、音楽的中心圏に流入していくか、自らが音楽的中心圏を形成していくかということなのだと。

 ですから、大衆とインテリゲンチャー、大衆歌謡とクラシック音楽とか、二元論的な対立と捉える比較はほとんど意味がないのだろうと思う。すべての表現活動は上昇性と下降性を持っていますので、その世界はパレートの法則のごとき分布相を形成する。それが自然なのだ、と。


 そこから先のことを述べるのはこのページの目的ではありませんので、差し控えますが、基本的な考え方を押さえておかねば無意味な論議や不毛な論争になってしまうだろう、ということを申し上げておきたいと思う。

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