サーバー業者は、歌詞のファイルも、何の連絡もなく削除してしまいました。
歌詞も掲載してはいけない、という通知があったのでしょう。
歌詞も掲載してはいけない、という通知があったのでしょう。
歌詞もまた著作物ですから、理屈の上ではそうだといってよいでしょう。
しかし、歌詞というのは曲とセットではじめて意味をなす鑑賞物になるのだと思う。
例によって身も蓋もない言い方をしてしまえば、歌詞は曲を聴きながら言葉をたどるから鑑賞物としての価値があるのであり、曲がなければまともに鑑賞に堪えるほどの言葉の表現ではないよ、といいたいね。
つい先日見学させて頂いた田舎の短歌サークルで、ある人が次のような歌を詠みました。
信号を待ちて停車するわれに
手を振ってゆく自転車の妻
車を運転している「私」は、途中で自転車の妻を横目に通り過ぎていったのでしょう。
けれども、赤信号に引っかかって停車していると、妻も私の運転する自動車に気づき、運転席を覗いて手を振って追い抜いていった、という光景を詠っています。
多分、車を運転している「私」という人は、妻に向かって手を振るようなことは気恥ずかしくてやらなかったのでしょう。
けれども、妻はなんのてらいもなく、他の車を気にせずに手を振って通り過ぎていった、と。
ごくありふれた日常の中で、家庭の中では起こりえない出来事であり、はからずも夫婦の愛情の交流のようなものがあったことが、印象に残ったからこそ、このような歌を詠んで妻に見せたのでしょう。
このようなアマチュアの作品が、市井に埋もれてゆく一方で、大々的にもてはやされて大金になる歌詞もある。
夕暮れの街角のぞいた喫茶店
ほほえみ見つめ合う見覚えあるふたり
本当のことを言ってしまえば、田舎の名もないアマチュア老歌人の歌の2行と、有名なこの歌詞の2行と、どれだけの芸術的価値の違いがあるのだろうか?ということです。
有名な歌詞の、その次の2行を付け加えて比較してももよい。
さらにその次の2行を付録につけたとしても、表現された世界の感情的な豊かさと表現としての価値は、田舎歌人の歌の方が優れているといっても、言い過ぎではないだろう。
妻がパートに働きに出て、自分はスーパーで買い物をしたら、買い物のプロたる主婦の中に混じっておたおたする、というような70歳を越した普通の男性の旦那芸の短歌ですけどね。
この人の歌を勝手にここに載せたからといって、著作権侵害だなどとは言ってこないよ、大衆は。
曲を捨象して、言葉の表現だけの価値で自立する歌詞というのは全くといってよいほどありません。石川ひとみちゃんが歌っているから、なんでもすばらしいと...。
吉本隆明は阿久悠の歌詞と鈴木志郎康の詩を比較して、どちらが言語表現として高度であり芸術的価値があるか、結論だけを取り出せば「論じるまでもない」と書いていますが、それに倣って...
たとえば、朗読に詩の可能性を見いだしている谷川俊太郎や吉増剛造の詩は、朗読を聴かなくとも第一級の言語表現であることが素人にも分かるはずだ。
けれども、曲を離れた歌詞がそれ自体で詩として自立し鑑賞にたえるというほどのものは、はなからあり得ないのだね。
試みに、万葉集でもよい、古今集でもよい、少し読んでみるだけで、歌詞の七五調表現は1000年の手垢にまみれているし、繊細で高度な叙情性や言葉使いの芸術性どれをとっても、奈良時代の歌詠みに遠く及ぶべくもない、ということに愕然とするはず。
一方で、近代詩は明治以降膨大な作品群を通じて、伝統的な七五調だとか、短歌的叙情だとかの引力を脱して現代詩の世界を築いてきている。
たとえば、田村隆一は紛れもなく現代詩の巨星のひとつだけれど、彼の詩はほとんどが公開されている。
こんな詩を読んでみれば納得するかとおもうけれどね。 「四千の日と夜」
彼の家族には、著作権料なんて入らないでしょうね、これでは。
くどくど言うのはやめにして、歌詞だけ載せるのもいかんなどというばかばかしい著作権侵害の論理などやめて、地獄の沙汰も金次第だ、と本音をいったらどうかと、わたしなどは思うのだけどねェ。
しかし、歌詞というのは曲とセットではじめて意味をなす鑑賞物になるのだと思う。
例によって身も蓋もない言い方をしてしまえば、歌詞は曲を聴きながら言葉をたどるから鑑賞物としての価値があるのであり、曲がなければまともに鑑賞に堪えるほどの言葉の表現ではないよ、といいたいね。
つい先日見学させて頂いた田舎の短歌サークルで、ある人が次のような歌を詠みました。
信号を待ちて停車するわれに
手を振ってゆく自転車の妻
車を運転している「私」は、途中で自転車の妻を横目に通り過ぎていったのでしょう。
けれども、赤信号に引っかかって停車していると、妻も私の運転する自動車に気づき、運転席を覗いて手を振って追い抜いていった、という光景を詠っています。
多分、車を運転している「私」という人は、妻に向かって手を振るようなことは気恥ずかしくてやらなかったのでしょう。
けれども、妻はなんのてらいもなく、他の車を気にせずに手を振って通り過ぎていった、と。
ごくありふれた日常の中で、家庭の中では起こりえない出来事であり、はからずも夫婦の愛情の交流のようなものがあったことが、印象に残ったからこそ、このような歌を詠んで妻に見せたのでしょう。
このようなアマチュアの作品が、市井に埋もれてゆく一方で、大々的にもてはやされて大金になる歌詞もある。
夕暮れの街角のぞいた喫茶店
ほほえみ見つめ合う見覚えあるふたり
本当のことを言ってしまえば、田舎の名もないアマチュア老歌人の歌の2行と、有名なこの歌詞の2行と、どれだけの芸術的価値の違いがあるのだろうか?ということです。
有名な歌詞の、その次の2行を付け加えて比較してももよい。
さらにその次の2行を付録につけたとしても、表現された世界の感情的な豊かさと表現としての価値は、田舎歌人の歌の方が優れているといっても、言い過ぎではないだろう。
妻がパートに働きに出て、自分はスーパーで買い物をしたら、買い物のプロたる主婦の中に混じっておたおたする、というような70歳を越した普通の男性の旦那芸の短歌ですけどね。
この人の歌を勝手にここに載せたからといって、著作権侵害だなどとは言ってこないよ、大衆は。
曲を捨象して、言葉の表現だけの価値で自立する歌詞というのは全くといってよいほどありません。石川ひとみちゃんが歌っているから、なんでもすばらしいと...。
吉本隆明は阿久悠の歌詞と鈴木志郎康の詩を比較して、どちらが言語表現として高度であり芸術的価値があるか、結論だけを取り出せば「論じるまでもない」と書いていますが、それに倣って...
たとえば、朗読に詩の可能性を見いだしている谷川俊太郎や吉増剛造の詩は、朗読を聴かなくとも第一級の言語表現であることが素人にも分かるはずだ。
けれども、曲を離れた歌詞がそれ自体で詩として自立し鑑賞にたえるというほどのものは、はなからあり得ないのだね。
試みに、万葉集でもよい、古今集でもよい、少し読んでみるだけで、歌詞の七五調表現は1000年の手垢にまみれているし、繊細で高度な叙情性や言葉使いの芸術性どれをとっても、奈良時代の歌詠みに遠く及ぶべくもない、ということに愕然とするはず。
一方で、近代詩は明治以降膨大な作品群を通じて、伝統的な七五調だとか、短歌的叙情だとかの引力を脱して現代詩の世界を築いてきている。
たとえば、田村隆一は紛れもなく現代詩の巨星のひとつだけれど、彼の詩はほとんどが公開されている。
こんな詩を読んでみれば納得するかとおもうけれどね。 「四千の日と夜」
彼の家族には、著作権料なんて入らないでしょうね、これでは。
くどくど言うのはやめにして、歌詞だけ載せるのもいかんなどというばかばかしい著作権侵害の論理などやめて、地獄の沙汰も金次第だ、と本音をいったらどうかと、わたしなどは思うのだけどねェ。

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