石川ひとみ 続・「三枚の写真」について

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 吉田様、たいへん熱心なコメント、あらためて読ませていただきました。
 あの記事を最初に書いたとき、別ブログで女性の自立について論じていましたので、こちらの記事もそれに引きつけた切り口の記事内容になっているなと思います。


  松本隆さんについて厳しく書いているというのは、やはりあのNHKの番組を見ての反論という意味が半分はあったからですね。
 「大衆はいつでも正しく選択する」という発言は、何を意味しているかといいますと、大衆に読まれない高踏的な現代詩よりも、歌謡曲の歌詞のほうがまっとうな道を歩んでいる、あるいは価値がある、ということを言いたいのだと思います。

 ご存じかと思いますが、現代詩の方では歌謡曲の歌詞を現代詩だとは見なしておりません。

 現代詩は記紀歌謡以来の伝統的詩歌観の多くを否定して出発していますので、七五調の音数律と類型化した感情表現を踏襲している歌謡曲の歌詞とは明確に一線を画していると思います。

 明治以来の詩人たちの営為はひとえに短歌や俳句などの高度に類型化され、多くの禁忌と規範で自由な表現を抑制されてきた伝統的詩歌観からの脱出であり、口語自由詩の確立にあったわけです。といって、定型律がもたらす不自由さの中での緊張した簡潔な表現の良さまで否定するものではありませんけど。

 ちなみに『新古今和歌集』を開いてみれば、かの有名な仮名序があり、続いて春歌・夏歌・秋歌・冬歌と一般的な分類があり、さらに賀歌・哀傷歌・離別歌・旅歌・恋歌・雑歌・神祇歌・釋教歌と続きます。

 このような分類があり、当時行われた歌合わせの行事の中から、いわゆる「秀句」という規範的な表現が確立していきます。
 和歌には、序詞があり、懸詞や縁語・類語などが系統的に整理されており、一つの歌あるいは一つの言葉が二重・三重の意味と表象性をおびて、響き合い、繊細・華麗・幽玄な表現を可能にしています。
 これは同音異義語が多い大和言葉の基本的な要素から(必然的に)生まれてきたものであり、当時の人々はそういうものをかなり常識的に使いこなしていました。


 日本人的感性の特質としてあげられるのが「移ろいゆく相というものを基盤にして、自然や人生・社会を見る」という心性ですね。
 端的に言えば無常観を基盤において、日本人の美意識が鋭く立ち上がっているのが伝統的詩歌の大きな特質です。

 花の色はうつりにけるな、と詠う小野小町はそのような歌を色々詠っています。
 あはれなりわが身のはてやあさ緑つひには野べの霞と思へば  (哀傷歌の部所収)

 この歌について大岡信さんが、
「野べの霞」は亡くなった人が火葬されるときの煙たなびくさまをいうと解されているが、この歌の与える感銘は、そんな合理的な解釈だけに限定されるものではない、
...として次のように述べています。

 万物が刻一刻生成し変化しつつある春という季節の自然は、生の喜びを感じさせつつ、同時に生の無常迅速を思わせるものに満ちていて(中略)、うららかであるべき霞が、あわれ、移ろいやすい人の命の象徴となる。


 これを通奏低音として、歌謡曲に縁のある恋歌を概観しますと、「色に出さない」という表現が多々見られます。

 秋萩の枝もとををに置く露の今朝消えぬとも色に出でめや (色には出さず)

 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶことの弱りもぞする (秘めきれなくなる)

 忘れてはうち嘆かる夕べかなわれのみ知りて過ぐる月日を (思い秘めて月日過ぎる)

 雨こそは頼まば漏らす頼まずは思わぬ人とみてをやみなむ (あなたが頼みにしてくれるならなびきもするでしょう)

 知るらめや木の葉降りしく谷水の岩間に漏らす下の心を (木の葉=言葉。心中の思いが木の葉をぬらして漏れる)

 もの思ふといはぬばかりは忍ぶともいかがはすべき袖の雫を (秘めても袖の雫に現れる気持ちはどうにもならない)


 このように、燃える想いを直情的には歌わずに、さりげなく歌い上げるところに日本人的な情趣表現の美を切り開いていったのが恋歌の世界です。
 和泉式部日記などを読むと、男女の恋のやりとりが実に繊細で幽玄でさえある豊かな言葉の世界を繰りひろげており、ほとんど評言の言葉を失うほどです。

 伝統歌謡から言葉が分離して、詩として独立していった歴史的必然性を忘れて言葉を無意識のうちに使うならば、たちどころに記紀歌謡の大きな流れの中に飲み込まれる事になろうかと思う。

 以上のことを前提に、「三枚の写真」の歌詞を再掲してみます。

 (歌詞は削除しました)


 以前、北野ルミの歌「ギターのように愛されたい」と比較したのですが、
 渚をかけながら、裸足で愛され
 落ち葉を踏みながら ひとりに帰 る


 夏に恋をして、秋に「飽き=別れ」が来る、というのは歌謡曲の常套句ですね。

 夏の恋...太陽がまぶしい、渚と砂浜、はしゃぐ若々しさ、ゆれる笑顔、ふれあいと恋の深まり

 秋の恋...落ち葉=別れのイメジ、肌寒さ=こころの寒さ、川=涙の縁語

 この1番、2番は手垢にまみれた常套句の羅列だなと、私は強く感じてしまいますので、そこまで感性的に降りていけない。
 散文的にいってしまえば、ちょっと付き合いきれないという気持ちが先走ってしまう。

 恋愛というのは人と人とのコミュニケーションでも、もっとも緊密で微妙な感情もボディランゲージレベルで通じ合うものだと思います。
 雰囲気だけで理解し合える以心伝心・惻隠の情・不立文字の二人の世界。

 言葉では曰く言いがたいのが対幻想の世界ですから、昔からそれとなく表象性の高い表現で言い表し、二人だけがわかり合える言葉の世界があったのです。

 それをあからさまに言ってしまえば、霊妙微細な感情が崩れてしまうと、伝統的な日本人の心情が育まれてきたはず。

 そういう世界で「伏し目の美学」が粋とされてきたかと思います。映画で言えば小津 安二郎の世界とか、高倉健の伏し目とか、横顔で語れるのが粋なのだと。

 ですから、「目をそらさずに 好きって言える」というのは、外国映画のようなシーンを日本語の世界に持ち込んだといってよいのでしょう。
 欧米人は個人主義が確立していて、他者とのコミュニケーションでは文言に明示することで契約を確立させるという、他者不信を前提に信頼関係を築くわけです。

 男女の恋愛も、根底にあるのが契約という規範意識なのかと思います。

 私は日本人ですので、もしお付き合いをしている相手から、
「目をそらさずに 好きって言える」
 ...と言われたとしたら、その感受性を粗雑に思い、それまで二人で育んできたと思っていた二人の世界が瓦解し、春霞たなびく風景を幻視することになると思う。


 い つも「愛されている」という実感を持っていたい。...ということは私も別ブログで力説しているはずですが、女性は切り花のように毎日水を与え続けていないと、すぐしおれてしまう、と。
 ただし、それは単なる言葉ではなく「愛されている」という実感であり、ボディランゲージや気遣い・心やりであり、目は口以上にものを言うものなのだ、と。

 三浦徳子さんの歌詞「言葉じゃなくて 見つめて欲しい」...というのにグッと来る、とも書いております。

 たとえば、高倉健が敵地に向かうとき、ふと振り向いてお竜さんの目を見据える、その一瞬に言葉をこえた気持ちの交わりがあるわけです。
 ここで無理に何かを言おうとするなら、どちらかが「なにも言うな(言わないで)」ということになるかと。

 それが、粋の表現ですね。

 あくまでも歌詞という言葉の表現の世界であり、日常性の言葉のレベルとは自ずと異なる高い表出性つまり言葉の美が求められるべきでしょう。

 吉本隆明が、歌謡曲の歌詞は大衆の内側から表現され、現代詩の表現は大衆の外側から表現される、と言い表していますが、「目をそらさずに 好きって言える」という散文的なセリフは、まさに大衆の内側から発せられている言葉ですね。


 それと、言葉というのは、何度かくり返すうちにいともたやすく風化していく、ということも忘れてはいけないことです。
 愛している、という言葉を人生初めて使うときは誰でも多分、清水の舞台から飛び降りるという気持ちになるでしょう。
 しかし、それを何度か繰り返してゆくと、確実に空気が抜けていき、しっかりと目を合わせて「愛してるよ」とウソがつけるようになってしまうものです。あるいは、本気で言っているけれども、どこかでウソっぽいなとか、言葉が本質的に持っている事物との差異あるいは無の感覚...。

 さらに悪いことには、恋愛には賞味期限があるというのは昔から実感されていたようで、三年目の浮気という常套句があります。恋愛感情が薄れて、友達感覚になり、そのうち空気みたいな存在になっていく。

 これこそが、移ろいの姿ですから、人の心が移ろうことを詠嘆する表現は万葉以前から連めんとしてあり、日本的心性では織り込み済みのものです。
 なので、それ自体を詠唱することに今日的な感動はもとめられないだろうな、と思います。
 つまり3番の歌詞ですね。

 これを伝統的な形式である「序・破・急」の流れとすれば、能のような表象性の表現であると見なすことはできるでしょう。

 最初に挙げたように、この歌詞の言葉は意味的な喩が多用されており、像的な兪があまり見られないために、劇的空間の広がりが乏しいように思います。
 なぜ意味的な兪がこの歌詞に多いのかといえば、作者の頭にはたぶん「序・破・急」を時間的に構成するという、形式美の意識があったからだと考えられます。そういう知的な構築が優先されて、観念的な意味兪が出てくる。


 私は、16歳、17歳そして20歳。...高校時代と、大学生か短大生の時代。
 あなたは、18歳、19歳そして22歳。...高校から大学時代そして社会人になっていく年齢。

 ...これはある程度計算された年代だと思います。

 高校、大学、社会人と、生活環境が変わるわけですが、二人の年齢差があるために、二人の意識変化にタイムラグを生み出します。


 高校時代の「私」には環境の変化はなく、「あなた」の方は高校から大学に入り新しい交友関係が拡大していきます。
 私自身の経験でも、都会の女の子たちと出会って演劇とか文芸映画とか新鮮な刺戟を受けて、郷里でお付き合いをしていた女の子の話題がつまらなくなる、色あせて感じるという感じで自然消滅していきました。

 ですので、2番の詩は別に好きな人ができたということではなく、「あなた」の世界が広がることによって、「わたし」の存在が相対的に小さくなっていく、ということかと思う。

 別な女性ができて、「あなた」の気持ちが離れていくなら、この時点で「別れ」を口にするのではないでしょうか。


 松本隆さんについてはほとんど知りませんが、そういう演歌的な世界を表現することはないかと思います。
 こころが離れつつあるけれども、べつに嫌いになったとかということでもない。そういう感情の中で、付き合っている。
 そのこころの温度差が、私には冷たいと感じるわけですね。

 伝統的な心情からすれば、ここに歌が発生するわけです。古今・新古今に見られる移ろいゆくものへの詠唱です。

 けれども松本隆さんは、外国映画のようなシーンをぶち込んだ。
 これはある意味で革命的なことで、短歌的叙情を排して、現代っ子的女の子の耐えることを美徳としない自己主張で置き換えてみたかったのか...。


 けれども、離れていく彼の心を引き止めることはできないし、無理に引き止めても、引き止められた男というのはえてしてわがままに振る舞い始めるようになっていく...。
 けっして、幸福な状態には戻り得ないし、腐れ縁の演歌的世界になっていくでしょう。極めて散文的世界です。

 そういう別れがかいま見えている状態で、「目をそらさずに 好きって言える」というセリフは、女性の感情からすると「ダムが決壊した」状態ですので無理もないかと思います。


 しかし男としてはこんな場合、何も言えないはずです。説明しにくい。

 二度繰り返されれば、「あなた」の気持ちは内省的になり、 「もう、以前のような熱い気持ちは薄れたけど、嫌いになったわけではない」と。自分の殻に閉じこもり、黙り込んでしまうでしょう。

 さらに追い打ちを掛けたとしたら、別れを早める結果にしかならないかと思う。


 そして、吉田さんが指摘する3番の歌詞ですね。
 「街」が出てくるのは、1番で海辺、2番で谷川という「旅先のイベント」を表現したのに対して、「退屈な日常」を示す意味ではないでしょうか。
  
 日本語は直接的な意味の他に周辺概念も含んだ曖昧語ですから、いろいろな解釈が成立するものです。
 非日常と日常性の対比という解釈もなるほど、とうなづけます。
 けれども、すこし図式的な区分けのような気もいたします。


 意味的に追っていけば、3番の時点では二人してどこかに出かけていくということがすでに無くなっているということではないかと、私は思います。
 街の中で落ち合い、たとえば食事をしながら話をするとか、どこか話し合える場所におもむくことも、十分意味のあるイベントです。
 それがかつて通い慣れた行きつけのレストランであったとしても、別れを告げるとなれば非日常的な世界に一変するでしょう。


 松本隆さんはここでも演歌的表現を避けているのではないかと推察されます。

 以前に取り上げておいたのですけれど、藤圭子の『別れの旅』の世界です。
 「さみしい手と手 重ねて 旅に出る 4年ありがとう 幸せでした 愛の終わりの旅に出る二人」

 こういうべっとりまとわりつく情景を排除したいのでしょう。
 彼の世代であれば、この歌は十分に聴かされていたはずです。
 こういう演歌的表現に革命を起こしたいのだと。


 問題になるのは「別れ間際に 振り向いた街 あのまなざしは 焼きついてたのに」ですね。

 私も初め、脳裏に焼きついているというイメージを持っていましたので、吉田さんのおっしゃるように「1番の世界を表現している」というもっとも妥当な感じの解釈もありました。けれども、確たる根拠を見いだせない。

 それで、今回は私自身が表現者として歌詞の修辞的な面から見てみますと、3連で提示する言葉が1連目の言葉を参照するという距離感は、無理があるかなという感じを受けます。

 歌詞の表現ですから、1番・2番と歌ってきて時間的に経過があるわけです。そして3番で、数分前に歌った内容を参照関係にするのは、修辞的にはやってはいけない部類の表現となってくるはずです。

 ここは、三枚の写真を見ている場面ですから、素直に1枚目の写真に焼き付けられた「あなた」の、屈託のないまなざしと受け取るのが、いちばん自然ではないかと思います。

 現代詩の場合は、基本的に読む詩ですから、前に出てきた語句を受けて成立することは問題ない。前に戻って読み返せばよいだけのことです。
 けれど、歌謡曲の場合は基本的に聴き流すものなので、言葉の係り結びはできるだけ接近しているべきかと思います。ほとんどの歌詞は意味の流れに沿って、言葉が並んでいるわけですから。

 「あのまなざし」は表現上は写真のまなざしを示し、メタファーとしては「1番の歌詞を受けている」と解釈すれば、申し分ないのかなと思います。



 次に、「振り向いたのは彼女ひとり、と考えています。」との解釈ですけれど、どういうところからその解釈が出てくるのかが、私にはよく理解できないのです。

 私の考えでは、次の「あのまなざしは 焼きついてたのに」を導き出すために、「振り向いた街」があるのではないかと考えられます。
 修辞的な問題だと。

 別れ間際に彼は私から目をそらして、街を振り向く。見つめるわたしは、かれの横顔に二重写しのように、写真に残るあなたのまなざしを幻視しているのでしょう。映像的な二重写しの手法が採られている。
 彼が街を振り向くことによって、このフレーズが生きてくるのですね。

 そして「目をそらして いいのよあなた」もう責めないわ、と係り結びが完結する。


 けれども、私が街を振り向いてしまったなら、次の「あのまなざしは 焼きついてたのに」というフレーズが生きてこないし、さらには「目をそらして いいのよあなた」という結びにつながらないように思います。

 私は顔を背けて街を見る。
 あなたも「目をそらして いいのよあなた」...という事になれば、寒々しい別れになるかと。

 
 彼氏に「本当は気持ちが冷めているのに、私の目を見て無理に" 好き"っていうようなことは、もうしなくていいのよ。そんなプレッシャーからこれで解放してあげるわね。」という、若干皮肉を含んだ諦念の言葉でしょう。 ...私はそう解釈していて「物語性がある」と感じていましたし、石川さんもほぼ同じように見ているらしいと知って


 ...残念ながら、私などは無理に好きと言わなければならない恋愛腐れ縁は演歌的過ぎて、とても理解を超えます。
 結婚をしている間柄であれば、なんとか努力をしようとは考えますが、自由な恋愛関係において義務的にお付き合いしなければならないという不毛さには耐えられません。

 プレッシャーからこれで解放してあげるわねという感覚は多分に女性性のこころの有り様としてあるのかもしれませんが、そのような倫理規範のようなものに基づく心理的支配関係というのは、自立した人間同士の関係であるとは言えません。
 女性の場合は、大なり小なり母親との葛藤(母親の娘支配)で育ちますので、そういう関係性を不自然には思わないような傾向があるかと思います。

 けれども、男ならば、そういうものを疎ましいとかおぞましいとか感じるはずです。
 女性性にとっては自然に身につく関係性かもしれないが、男性性においては非自然な疎ましい関係性ですね。


 それで、男性性の意識で考えてみると、ここの「目をそらして いいのよあなた」という表現は次に、「目をそらさずに 好きって言える」なんてもう言わないわ、という沈黙の言葉を引き連れているのかと考えられます。

 私が受ける印象では、それでも私は愛している、という「わたし」の心情ではないかと感じる。


 石川ひとみさんが、この箇所で「胸がキュンとなる」のは、もっと別なところにあるのではないでしょうか。
 彼女の書いた歌詞などを読むと、たいへん際だった特質があり、「私は移ろいゆかない」という強い意志表示があるということですね。

 「私は忘れない」という表現にたびたび出会います。
 移ろいの相において自然や人・社会を見ていく日本的心性の中で、石川ひとみという人はそれに抗していく姿勢を見せ続けています。心変わりしない、という意志それはある意味で自己規制を堅持するということになるでしょう。

 そのような心性は、心的な意味での男性性の傾向ですので、あのかわいらしい石川ひとみさんが結構オトコっぽい精神構造をもっているのかな、と思えます。
(以前から言いたかったことを、言ってしまったのだ)

 それを考慮に入れますと、若干皮肉を含んだ諦念というよりは、「それでも私は愛しているわ」という表現として、
 この「目をそらして いいのよあなた」という一行に共感したのではないかと、思われます。

 でも、三木聖子さんの場合ですと、ピッタリあうかもしれない、かな。
 といっても、三木聖子さんをほとんど知りませんので、失礼な言い方になるかもしれませんね。

 (長くなりすぎましたので、次回に持ち越します)

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2010年7月28日 23:44ブログ記事一覧です。

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