石川ひとみ 続・続 『三枚の写真』について

| | コメント(0) | トラックバック(0)
 前向きのコメントのおかげで、久しぶりに熱が入り、三枚の写真に対する理解も深まりました。
 昨日、記事を書き終え、晩酌をしながらテレビをつけてみるとNHKで松本隆の番組をやっていました。
 見ていて、どうも私は一つ誤解していた点があるようだと気づきました。
 松本さんの「大衆」発言は、彼がロックの世界から歌謡曲に参入していく際に仲間たちから非難あるいは揶揄されたことに対する反論だったのか、と思いました。

 それなら納得できる。
 かれの歌詞は三浦徳子さんと同様に、現代詩を研究して大衆意識の外縁部と外側のあたりを行き来する感じで表現がなされていると思います。
 ようするに、大衆意識の底辺から言葉を立ち上げるのではなく、若い人たちの感受性を既存の歌謡曲よりも高いレベルに引っ張り上げられるギリギリのところを設定しているかと。

 

 さて、この「三枚の写真」ですが、音数律から見ると七五調のうち、4音+3音の7音で全体を構成しているところに、若干破調を意図しているかと思えますが、七五調の一つであることには変わりはありません。
 ただし、一般的な構成ではありませんから、新しい定型の試みをしているのかなという印象もあります。

 三枚の写真は、前回述べたようにリフレインの部分が、日本的な叙情性ではなく外国映画のシーンのようなセリフです。
 それ以外、1番・2番は常套句が七七の音数律に乗って続きます。
 3番は短歌的な表現ではありませんが、俳句的な描写に近い。

 それで、普通に叙情の内容を吟味してみると、北野ルミの曲とほとんど変わりがないでしょうね。
 ただし、北野ルミの曲の方がより演歌っぽい表現であり、「三枚の写真」のほうがまとわりつくような抒情性を排していてサラリとしている、という若干の違いはありますね。

 石川ひとみさんの感性では3番のリフレインを、永遠の相の元に独自の解釈が成立するかと思いますが、大衆向けの歌詞の意味と正当な見方をするなら移ろいへの詠嘆であるといってよい。

 言葉の表現が語っている範囲では、ごく普通に通念的であり、大衆の内側にとどまっている。
 表現の素材として写真を取り上げていることによる表現のバリエーションはあるわけですが、素材の新しさが内容の意味的な新しさをもたらすはずもない。

 少なくともこの曲においては、革命的なことは何もないといってよい。

 唯一、この歌詞で評価すべきところは2番の、年齢差がタイムラグを生み出し、二人の恋愛が冷めていく理由の表現として提示したことかなと思う。

 3番に関しては、藤圭子の歌を引用したように、「愛ある別れ」の世界を踏み出るほどのものはないでしょうね。


 それで、以前の記事ですが、私はプロデュース戦略を意識して書いたかと思いますが、若干補足しておきます。

 「三枚の写真」は三木聖子の歌詞として作られ、それほどヒットしなかったわけですね。
 「まちぶせ」の場合は、有線でリクエストがあり、結構根強い支持があった。


 「三枚の写真」は七音を連続する歌詞ですから曲が淡々となりやすく、
 あるいは逆に淡々とした抒情歌として七七調にしたのか、
 どちらにしても大ヒットするような曲とはならないけれども、
 しみじみとした佳曲にはなるだろう、という歌ですね。

 でも、この曲を鶴の一声で決定した以上はこれで勝負しなければいけないわけで、前車の轍を踏まないためにはどうしたらいいのかが問題になるはずです。

 何かを変えられるとしたら、若干のアレンジ変更か、あるいは歌い方にしかないわけですね。

 この歌詞で唯一、意味がある2番の歌詞の歌い方を思いきって変えることでそれが可能ではないかな、
 ...ということが以前の記事の内容だったと思います。


 この歌詞はある意味で都会的風俗をとらえているのだと思う。

 16歳の女の子と18歳の男の子がつきあい始める、というのは多分に都会的な話だろうなと、
 ...田舎ものの私は感じるね。

 地方都市育ちの私の感覚では、
 中学生の女生徒が高校生の男の子とつきあい、海に行ったり、というのは想像しにくいところです。
 中学生ではなく、高校一年生なのかもしれませんけどね。

 地方にもよるのでしょうが、だいたいが保守的ですから、そういうお付き合いそのものが成立しにくい。

 せめて高校生くらいになって、男女交際が始まるわけですが、だいたいは同級生同士のつきあいになる。
 この年代で年の差カップルというのは、相当にとんでるカップルだと、
 田舎では不良仲間と見なされかねない、ものではないかな。

 まあ、この歌詞はあくまでも表現上の私とあなたですけど、そこに都会的な雰囲気を感じるのかな、
 ...と思います。

 この年の差カップルを表現上に成立させることにより、
 高校生と大学生の世界の広がりの違いが、
 感性的なタイムラグとして新鮮に立ち現れてくる。

 二人は、まさに青春まっただ中。

 この2番の歌詞に、武衛的女性感覚を盛り込むと良くなるなと思うわけです。
 「いま 愛が引き潮...」の感覚ですね。(武衛尚子『海のようなやさしさで』)
 この感情は女性の永遠の部分ですから、いつの時代にも古びない。

 一五一会版「右向け右」のような歌い方を、2番でやれば、
 「目をそらさずに 好きって言える」が、日本的感受性にも粗雑に感じず、
 深い幽玄をただよわせることができるのではないか...
 ...そういうお話でした。

 「さっさと 消えれば いいでしょう」(『右右』)の、
 若さに任せた放言みたいなざらついた表現が、
 繊細でうるおい豊かな歌唱表現に生まれ変わったわけですから。


 石川ひとみさーん、一五一会版 『三枚の写真』 リクエストしまーす。

 CDに2、3曲入っていて、あと自作詩の朗読でも大いに結構です。
 またはダウンロード版でもいいですね。定価は8000円くらいかな。

 どうも最近私は散文的すぎて、いけない。


 それでと、比較対照する曲の選定ですか。
 今回、きっちりと一つ一つ理由を挙げて説明しておきましたので、比較する必要がなくなったかと思います。

 昨日の松本さんの話や、前回のTVの話から、
 彼は歌手の印象と、自分の思い入れが成立しないと書けないタイプだなと分かりました。
 阿久悠もそうでした。
 横断的な流れで仕事をするのではなく、歌手個人の過去現在未来を見据え想像して書く。

 ですので、太田裕美や岡田奈々の流れの延長で、といっても、
 多分松本さんはそういう流れでは書いていないはずだと思う。

 太田裕美の過去現在未来、岡田奈々の過去現在未来、
 ...そういうものを重視しているはずです。

 まったくそれらの歌詞を見もしないで申しておりますので、かなりいい加減な憶測ですけれど。
 本質的なことを押さえておけば、私としてはOKかな。


 松本さんは、休筆中に自分に足りないものとして「古典」に取り組んでいた、という。
 確かに、それ以降の歌詞はぐっと良くなっています。

 それ以前の歌詞は、歌謡曲の古くさくジメッとした常套句に対して、
 都会的で小じゃれた、気の利いた言葉を対置させてみせた、
 ...という以上のものではありません。

 古典の豊穣な言語表現に触れることによって、
 「目をそらさずに好きって言える」みたいな、粋ではないつまり無粋(で粗雑)な、
 むしろ女性ロック歌手にでもふさわしいような表現が無意識に出てくるようなことが、
 ...少なくなったように思えます。


トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: 石川ひとみ 続・続 『三枚の写真』について

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://mediaxross.com/feeling/mt/mt-tb.cgi/14

コメントする

About this ブログ記事

2010年7月29日 01:23ブログ記事一覧です。

前の記事は「石川ひとみ 続・「三枚の写真」について

次の記事は「再『三枚の写真』

最近の記事はトップページへ。
過去記事はアーカイブ