漱石ではありませんけども、「三枚の写真」の話が尻切れトンボになったままで、どうも気になりますので、一応説明を加えて幕引きをしておきたく思います。
前回までの話では、投稿の論旨に対して、
「こういう考え方もある」ということを対置させて頂きました。
これは弁証法的なアンチ・テーゼと考えていただいてけっこうですが、
それは相反する考えを対置させて、それを包含しうる考えを模索する、
...という意味あいがあります。
ですから、この対置された考え方は必ずしも私自身の結論でもなく、
ディベート的なアンチを対置させたに過ぎない部分があちこちあります。
私自身は5、6箇所の反論が出てくるのを想定しておりましたけれど、
それらにさらにアンチを提示して、
その全ての対立点を包含する視点を提示してみれば、3分の2くらいは自分の考えを示すことができるかな、
...と考えておりました。
デリダ的にいえば、「(アンチを)提示しているのは、ある種の郵便物の架空の署名者だということを、念のために指摘しておきたい」ということになります。(『郵便絵葉書』についてのインタビューから)
「そうした言述を仮託しているのは私ですが、私の名においては、またひとつの説(テーズ)としては、私はそう言わないでしょう。」
デリダは文学について語っていますが、私は弁証法におけるアンチ・テーゼの性格も、役割を仮託されたディベートのアンチであると、考えています。
そういうことですから、論争相手からしばしばあまのじゃくだと評されますけど、ある種のドクサを先入見として抱いていてそれに無自覚であるテーゼに対しては、その先験的なドクサをまず現象学的に解体・還元せずにはおけない、ということです。
たとえば、科学的=真実だ、というプリミティブな物の考え方をする人が大多数ですけれど、私は常に科学とはセパレート(分科)な部分学である、と断り書きをします。
歯科に行って腰が痛いと訴えても、来るべきところを間違えている、といわれるでしょう。
外科に行って頭が痛いと訴えても...、内科に行って指をケガしたとうったえ...。
学者の論文を見ればすぐ分かりますが、
・まずその論が取り扱うべき範囲を明示し、
・学術用語の定義を定めて、
・方法論と実験条件を明示して、
・そのデータの取り扱い方を明示して、
・その研究機関の場所および期間を示し、
初めて、論考がスタートするわけです。
つまり、最初に提示した条件外のことについては、論考の対象外として論じない。
これが、分科の学ということですね。分限をわきまえる、ということがもっとも重要な前提です。
学術論文ではない雑記事ではそういうことは手続きとしてやりませんけれど、方法論的には踏まえておくべきことです。
社会科学のひとつとしてマーケティングを論じるばあいには、データが数字として意味を持つのは、そのデータが等質の物を扱うかぎりにおいてですね。
個々人の価値観が多様であるような領域については扱い得ないし、意味のあるデータなど取りだし得ない。
最低限の科学的条件を満たすものについてしか語れないよ、ということです。
余計なことを長く書きすぎました。
デリダは、表現が読者によって成立するということに触れて、次のように書いています。
「文学の中には、確かに無責任の危険性(それは私ではないのだから、私は何でも言う)、あるいはまた、倫理と審美観とを混同する危険性、仮象として現れる危険性、フェティシズム(たとえば科学万能信仰など)の危険性があると思います。(中略)
文学はもっとも大きな責任を呼びかけることができるものですが、それはまた、最悪の裏切りの可能性でもあるのです。」
「問い-同様にして、最悪の権利剥奪の可能性でもありますね。人が書いたものの剥奪をも含めて。」
「...そのとおりです。そして、剥奪はまた、愛の告白に署名さえしないという危険性でもあります。実のところ、文学市場に売り出されるやいなや、署名するのは私ではありません。」
ここで相互テクスト性の迷路に入り込むつもりはありませんが、ディベート的アンチを、弁証法という方法論に仮託して提出した段階で、尻切れトンボになってしまっては、私が署名をする意味あいは全くないということになるかと思います。
私の見解の糸口を取りだしてきた段階で、宙ぶらりんでははなはだ不本意で、色々誤解されかねない危険性があるように思う。
権利収奪以前の、権利不成立状態なのだ、と申し上げておきたいですね。
「こういう考え方もある」ということを対置させて頂きました。
これは弁証法的なアンチ・テーゼと考えていただいてけっこうですが、
それは相反する考えを対置させて、それを包含しうる考えを模索する、
...という意味あいがあります。
ですから、この対置された考え方は必ずしも私自身の結論でもなく、
ディベート的なアンチを対置させたに過ぎない部分があちこちあります。
私自身は5、6箇所の反論が出てくるのを想定しておりましたけれど、
それらにさらにアンチを提示して、
その全ての対立点を包含する視点を提示してみれば、3分の2くらいは自分の考えを示すことができるかな、
...と考えておりました。
デリダ的にいえば、「(アンチを)提示しているのは、ある種の郵便物の架空の署名者だということを、念のために指摘しておきたい」ということになります。(『郵便絵葉書』についてのインタビューから)
「そうした言述を仮託しているのは私ですが、私の名においては、またひとつの説(テーズ)としては、私はそう言わないでしょう。」
デリダは文学について語っていますが、私は弁証法におけるアンチ・テーゼの性格も、役割を仮託されたディベートのアンチであると、考えています。
そういうことですから、論争相手からしばしばあまのじゃくだと評されますけど、ある種のドクサを先入見として抱いていてそれに無自覚であるテーゼに対しては、その先験的なドクサをまず現象学的に解体・還元せずにはおけない、ということです。
たとえば、科学的=真実だ、というプリミティブな物の考え方をする人が大多数ですけれど、私は常に科学とはセパレート(分科)な部分学である、と断り書きをします。
歯科に行って腰が痛いと訴えても、来るべきところを間違えている、といわれるでしょう。
外科に行って頭が痛いと訴えても...、内科に行って指をケガしたとうったえ...。
学者の論文を見ればすぐ分かりますが、
・まずその論が取り扱うべき範囲を明示し、
・学術用語の定義を定めて、
・方法論と実験条件を明示して、
・そのデータの取り扱い方を明示して、
・その研究機関の場所および期間を示し、
初めて、論考がスタートするわけです。
つまり、最初に提示した条件外のことについては、論考の対象外として論じない。
これが、分科の学ということですね。分限をわきまえる、ということがもっとも重要な前提です。
学術論文ではない雑記事ではそういうことは手続きとしてやりませんけれど、方法論的には踏まえておくべきことです。
社会科学のひとつとしてマーケティングを論じるばあいには、データが数字として意味を持つのは、そのデータが等質の物を扱うかぎりにおいてですね。
個々人の価値観が多様であるような領域については扱い得ないし、意味のあるデータなど取りだし得ない。
最低限の科学的条件を満たすものについてしか語れないよ、ということです。
余計なことを長く書きすぎました。
デリダは、表現が読者によって成立するということに触れて、次のように書いています。
「文学の中には、確かに無責任の危険性(それは私ではないのだから、私は何でも言う)、あるいはまた、倫理と審美観とを混同する危険性、仮象として現れる危険性、フェティシズム(たとえば科学万能信仰など)の危険性があると思います。(中略)
文学はもっとも大きな責任を呼びかけることができるものですが、それはまた、最悪の裏切りの可能性でもあるのです。」
「問い-同様にして、最悪の権利剥奪の可能性でもありますね。人が書いたものの剥奪をも含めて。」
「...そのとおりです。そして、剥奪はまた、愛の告白に署名さえしないという危険性でもあります。実のところ、文学市場に売り出されるやいなや、署名するのは私ではありません。」
ここで相互テクスト性の迷路に入り込むつもりはありませんが、ディベート的アンチを、弁証法という方法論に仮託して提出した段階で、尻切れトンボになってしまっては、私が署名をする意味あいは全くないということになるかと思います。
私の見解の糸口を取りだしてきた段階で、宙ぶらりんでははなはだ不本意で、色々誤解されかねない危険性があるように思う。
権利収奪以前の、権利不成立状態なのだ、と申し上げておきたいですね。
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