「ピピッと第六感」を選ばなかった意味

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 石川ひとみ歌手デビュー曲は三浦徳子の2つの曲からの選択がありましたが、選ばれなかったほうの曲
『ピピッと第六感』について、少し触れておきましょう。

 
   「あなたが太陽で私はひまわり」という、明るくて屈託のないような出だし......

 この歌詞が「かわいらしすぎて、私には合わない」と、ご本人が言っているのですが、
 三浦さんの歌詞は、素直に額面通りには受け取れないかと思います。


 三浦徳子さんは若い娘の詩を書くのには、ご自身の表現意識が上昇しすぎていますから、無理にとってつけたようなフレーズを入れてしまう、という感じを受けます。

 あなたの態度はぎこちないわ、無理しないで、という雰囲気です。

 石川ひとみさんの年齢よりも、もっと大人の女性の感覚ですね。
 こういう三浦徳子さんの感覚がこの歌詞の基調になっています。

 一目惚れとか、早すぎる恋、とかいわれるけれど、最初の直感というのは案外正しいものらしい。

 これでいいのだ、とい感覚は外れてはいないのだろうね。
 それで、何がいいんですということなのだけれど? 恋?

 どうも違うようです。

 恋というのは「ある日突然に」というのがほとんどです。
 知り合って一週間もたたないうちに恋をするというのはごく普通であり、第六感などとと、わざわざ言い訳めいたことを言う必要もないでしょう。

 どうも、恋のことではないようだ、と。
 これに続く三行を読んでみると、三浦さん得意のメタファーが仕掛けてあるのがわかる。

 オートバイに二人乗りしているイメージが浮かんできますが、明瞭なものではありません。
 どこか曖昧なまま。

 歌詞という文字制限もあるのでしょうが、ウラの意味を持たせるために、バイクのイメージを特定しないようにしているかと...。

  雨、の意匠
  舞う花びらのイメジ

 意味深ですね。
 表の意味は文字通りなんてことのない情景描写ですけれど、ウラの意味は別のことを表現しているようだ。
 あからさまに言えば「二人の初体験」を、それとなく暗示している。
 
 それでもいい、という、それの意味が見えてくるでしょう。
 ...セリフが、裏の意味をそれとなく示している。

 かなりきわどいことを、メタファーで覆い隠しているのですね。
 表の意味的な展開から行くと、なんでここで花びらが出てくるのか、必然性も理由もないわけです。

 けれども、コノテーション(言外の意味)の流れから見れば、
 舞い落ちる花びらのイメージに、
 この歌詞のすべてことばが収斂していくわけです。

 そのきわどさがあからさまにならないように、
 太陽とヒマワリの対比を置いてはいますけれど、
 無邪気なセリフでボカシのダメ押しをしている。

 しかし、この部分はどう考えてもそれまでの歌詞の少し大人びた言葉からは浮いている、
 ということですね。

 『右右』の歌詞でも、「本気だった気持ちに気づいて欲しい」という部分が、とってつけたようなセリフだと、指摘しました。あれと同じです。

 どうも、この歌詞は三浦さんの意図というよりは、渡辺晋オナペット路線のような雰囲気を感じます。けれども、隠喩でうまくぼかしているので、ほとんどだれにも気づかれない。
 けれども、デノテーション(表の意味)がかなり意味不明なために、

  雨と花びらのイメジが現実的ではなく、

...注意深く読めばウラの意味で書いていることの実態が見えてしまう、という点では岡田さん的なメタファーとさほど違いはないかと思います。歌謡曲ですから、わざとばれやすくするということかもしれませんが。


 また、その他の歌詞の意味的な展開でも、石川ひとみさんは男の子に一目惚れするタイプではなくじっくりと関係性を深めていく人のようですから、「白馬に乗った王子様を待っている」様なところはあまりないのでしょう。


 曲についてひとこと言えば、全体に高音部が続いて、石川ひとみちゃんだから歌えるけど、普通の人には息継ぎ苦しい~となって、口ずさめるのは最初の2フレーズだけ、(目で読む)現代詩的歌詞なのでメロディーのノリもよくないということで、ヒットしないだろうなと誰でも直感するのではないでしょうか。

 それなら、少しくらい言葉がきつくてもノリがよい「さっさと 消えれば いいでしょう~」の方がいいかなァ、と。



 【コメント】

小林さんはじめまして。
「松本隆の歌詞」で検索して参りまし。

私はかつて「海より青いひとみ」という、石川ひとみさんの話題を扱うサイトを作っていました。
おかげさまで、このサイトを通じて多くの石川さんファンの方と知り合うことができ、貴重な資料を融通していただく機会を得ることや、石川さんの私あて直筆サイン入り写真をいただくこともできました。

CD-BOX(最初のほう)が制作された時には、担当のSさんからコンタクトをいただき、ブックレットに載せる年表編纂のお手伝いをしまし。
(ブックレットの最終ページに、私の名前も出ています。)

さらにその際Sさんに頼まれて、私が20年近く大切に聴いていた「くるみ割り人形/わたしはひ・と・み」のカセットテープを貸したことにより、同テープ収録のカバー曲すべてのBOX収載が実現しました。

私のサイト活動がわずかでも、石川ひとみワークスを後世に伝えるためのお役に立てたようで、懐かしくも嬉しく思い出されます。

しかし...。
小林さんのブログを見て、その膨大な分量とハイレベルな楽曲評論、決してうまくいったとは言いがたいプロデュースの「失敗の検証」にただただ驚嘆するとともに、かつて私がインターネットにたれ流していた文章を、心の底から恥じた次第です。

「海より青いひとみ」は、「石川ひとみさんは『まちぶせ』だけの人では決してなく、これほど素敵な歌をたくさん取り上げていましたよ!」
...と訴えることをコンセプトとしたサイトでしたが、小林さんの文章の前では、ただの浅学非才な、ひとりよがりの落書きにすぎません。

サイトは諸事情があって数年前に閉じましたが、閉鎖しよかった、と改めて感じました。小林さんのような方がファンにおいでなのにもかかわらず長年無鉄砲なことをしていた、知らないというのは恐ろしいことと、汗顔の至りです。

さて、今回アカウントを取ってまでコメント差し上げようと思い立ったのは、石川さんの話題ではなく、松本隆さんについて取り上げた記事を読んで、思うところをお伝えしたいからです。

本来ならばその記事にコメントをつけるべきところではありますが、サーバーを移転されたようですので、確実にご覧いただけるであろうところにコメントさせていただきました。失礼ご容赦ください。

さらに失礼を重ねてしまうようで恐縮ですが、小林さんは松本さんと同年代の方でしょうか。記事の中に、そう思わせるような記述がいくつか見受けられました。

私のように「北山修と松本隆の歌詞で育った」ような年代の者は、松本さんの作品というだけで「きゃー、すごい、スゴイ!」とまず熱くなってしまい、評論しようとしても結局は拙いファンレターの域を出ないものになってしまいますが、小林さんは松本作品に対して冷静な目線を崩さずに評していらっしゃるので、その時点で既に我が非力ぶりを思い知らされます。

古典から現代詩に至るまで幅広い分野の文章表現に精通している小林さんの手にかかると「風街詩人」もかたなし、なのですね。
「歌謡曲の歌詞で、曲を捨象して、言葉の表現だけの価値で自立できるものはほとんどない。曲がなければまともな鑑賞に堪えるほどの表現ではない。」という指摘には、私の感性の質の低さをズバリと射抜かれた思いです。

松本さんは、ヒット曲量産時代は裏方に徹していましたが、インターネットが普及しはじめた頃から積極的にメディアに出て、自分の意見を述べるようになりました。
おおむね首肯できます、中には首をひねらざるを得ない発言もあります。

その最たるものは、「大衆はそれほど愚かではない。長い目で見ると、いつの時代も優れた本物の作品を選択し、歌い継いでいく。」という持論です。

昨年教育テレビで放送された「佐野元春のソングライターズ」でもそう言っていました。私は、この考え方は少し大衆を買いかぶりすぎているのではないだろうか?と、常々疑問視しています。

松本さんは、小林さんのおっしゃるところの「マーケティング」、すなわち「ファン目線、つまりファンの気持ちや考えに立脚し、ファンが何を望み、求め、欲しているかを的確に把握した上、ファンと共に育っていくという形をとって、互いを高めあうような意識の向上を図ること」(引用です)を、有名作詞家の中では最も意識して作品を書いてきました。
その成果が現れたのが太裕美さんであり、松田聖子さんであることは言うまでもありません。
(にもかかわらず、ご本人はマーケティングリサーチと混同していることは、小林さんのご指摘通りですね。)

さらに松本さんは、歌詞作りという職業を通じて、上層伝播と低層伝播の二兎をあえて追いたい、という志を持った人と思われます。
しかし彼の視野にある「大衆」とは、小林さんの図にある三角形の「アクティブ」以上、多く見積もっても「リピーター」の上位層ぐらいであるような気がしてなりません。

流行歌謡をある程度自覚的に聴き続けている人以外には、松本さんの志はおそらく届かないでしょう。端的にいえば、私(石川さんの3年下です)と同年代やもっと若い人でも、歌といえば演歌しか知らない、田舎の青年団で活動しているような人は、少々文芸的な詞のある曲でも、中身がカラッポに近いような曲でも、「あの娘、ちょっと可愛いっぺ。あんな嫁さん欲しいべ。」で片付けてしまいます。
すなわち三角形の底辺にいる人にとっては、歌詞は全て等価なのです。この層にいくら低層伝播をやろうとしても、砂漠に水をまくようなものです。

また、一時の熱狂(いわゆる「ブーム」)に乗り、大衆が時にとんでもないものを支持したり、後から見れば愚の骨頂としか思えない判断をしてしまうことは、流行歌謡の世界にとどまりません。
今の松本さんは作詞の世界で大成功を収めて、ブルジョワジーの権化のような暮らしができる身分ですし、周囲には「松本さんの書くものならば何でもついていく!」という熱心なファン(三角形頂点の「ロイヤル」層)しかいないので、大衆とはそういった人たちのことと錯覚しているような節がうかがえます。

それだけに「松本隆の歌詞」の記事で小林さんがご指摘なされていたことには、わが意を得たり、の思いを強くしました。
小林さんがご指摘なされていた「メロディーと組み合わさり、歌手によって歌われることにより、まともな理解を得られずに売れてしまう"言葉の地位低下"」は、低層伝播さえもうまく伝わらない層の人たちが、諧謔味のかけらもないギャグにしたり、似ても似つかぬモノマネなどで貶めていくうちに、さらにひどくなっていく恐れさえあります。

松本さんのような立場にいると、そのようなことが自ずと見えなくなってしまうのでしょうね。

お話は変わりますが、小林さんの記事にはカセットテープからCDBOXに収録されたカバー曲の評もあるので、嬉しくなります。
私と一緒にブックレット編纂のお手伝いをした人たちの間では「アレンジが安っぽい!」と、バッサリ切り捨てられていましたが。

私は「ポケットいっぱいの『アグネスの秘密』(♪あなた草の上、ぐっすり...のフレーズの頭の字を取ると"アグネス"になる)を石川さんにやらせても、意味がないでしょう!」と、ひとりツッコミしていました。

「木綿のハンカチーフ」でさえ若さにまかせて、あれだけあっけらかんと元気よく歌うのですから、「ポケットいっぱいの秘密」は推して知るべし、ですね。

このカバー集では「想い出のセレナーデ」が唯一元気の良さにブレーキをかけて、歌詞をきちんと自分のものとしてこなそうと努力した節がうかがえる歌い方をしていますが、私はこの詞を誤読していました。
坂を登って見えてくるあなたの家のあの部屋に、もう今は知らない人が住んでいる、というのは、彼氏が物件から退居して、自分たちの恋愛模様を知らない第三者が引っ越してきた、とイメージしていましたが(たとえ知らない人が住んでいても、彼女にとってはいつまでも「あなたの家」という認識になります)、そうではなくて、彼氏は変わらずその家にいて、自分の知らない人=多分別の女性=が暮らしている、という状況なのですね。これは参りました。

...といった具合に小林さんのブログはたいへんためになりますが、「三枚の写真」の話に関してだけは「あれっ?」と思わされました。

長くなりましたので、これについてはまた稿を改めてコメントしたく存じます。よろしくお願いします。


 【コメント】

続けて失礼します。

"「三枚の写真」なぜか哀しくなる不安感"の記事を拝読しました。

「『三枚の写真』は松本隆らしく物語性が豊かだ、と言っている方がいますけれど、どのような物語なのですかと、私は訊いてみたいね。ネームバリューだけで、知ったようなことを言っているとしか思えん。」(引用です)

...こりゃまた失礼いたしました、私もかつて自分のサイトで同じようなことを書いた覚えがあります。しかし、CDBOXブックレットの「三枚の写真」のページを今一度ご覧になってください。他ならぬ石川さんご自身が、「歌詞がドラマ仕立てというか、ストーリーがあるので、自分が17の頃を思い出したりしながら聴けるのがいいですよね。」とコメントしています。小林さん、そこまでおっしゃるのならば、石川さんご本人にも同じ質問を投げかけてみますか?


小林さんの論は、ソングライターに対して辛口であることが特徴とお見受けしますが、松本さんに関してはとりわけ辛口すぎるような感想を持ちました。「三枚の写真」は、松本隆の代表作とされている作品ほどのクオリティはありませんが、アベレージレベルには十分達していると思います。

この詞のキーポイントが2番の「目をそらさずに、好きって言える?」であることについては、私も同意見です。表現は現在形ですが、この女性は長い恋愛が終わった後に、三枚の写真を取り出して、「ああそういえば、あの時あんなことを言ったわね。」と感慨にふけっていて、その時点から過去を振り返る歌だと思えます。

1番の「目をそらさずに...」は、おそらく最初の本格的なデートの時。もともと相手の目を見ないで話す癖があるのか、それとも彼女の水着姿にクラクラしたのかは知りませんが、目をあわせようとしない彼氏に、「ちゃんと好きって言ってよ!」とせがむ、明るいセリフでしょう。

これに対して2番の「目をそらさずに...」は、同じ言葉でも大きく意味が異なります。この時点で交際開始から1年と少し、彼氏が自分に何となく飽きてきたような態度を取るようになってきた。もしかしたら、他に好きな女性ができたのかもしれないと、それこそ「ハート通信」のヒロインみたいな第六感が働いて、彼氏の自分への愛情を再確認せずにはいられなくなったのでしょう。それゆえに、もう一度自分の目をしっかり見て「好き」と言ってほしい、あるいは既に誰か他の女性が彼氏の前に現れているのならば、「それでも私の目を見て、好きって言うことができるの?」という"挑発"のニュアンスも含まれるかもしれません。

「だーれだ!」の目隠しをした彼氏の腕に冷たいねと答えて涙を落とした、というエピソードは、彼氏の腕が谷川の水で冷やされて、物理的に冷たいということに加えて、「このごろあなた、何だか冷たくなってきたんじゃないかしら?」という意味が含まれていると思われます。だからこそ、他愛ないじゃれ合いにさえも「涙落とした」のでしょう。その彼女の気持ちをダメ押しのように象徴する言葉が2番最後の「ふたりの間の落葉」です。

再び引用です。
「「目をそらさずに(本気モードで)好き!と言う」のは、一回だけで勘弁して欲しいなと思ったりしちゃうけどね。あとは普段の態度で分かるはず、というのがごく普通の男の気持ち、、だよね。」

ええ、それでもなお、せめて節目節目には、目をはっきり見て「好き」と言ってほしい!というのが女なのです。具体的な話ももちろん必要、でもそれだけじゃイヤ、その上にいつも「愛されている」という実感を持っていたい。これが女の気持ちです。なのでこれを理由に「男の観念的な詞だということですね。」と断定してしまうのは、少し松本さんがかわいそうに思えました。

小林さんは、3番は単に形式を整えるだけの意味しか持たないという見解ですが...。

「街」が出てくるのは、1番で海辺、2番で谷川という「旅先のイベント」を表現したのに対して、「退屈な日常」を示す意味ではないでしょうか。

別れを決めた二人は当然街の中にいて、彼女が振り向いたらビルなり商店街なり、いつも見慣れた風景が目に入った、ということと解釈していました。

振り向いたのは彼女ひとり、と考えています。朝や夜ではなく、薄曇りの春の日の、午後と夕方のあいだぐらいの、人影の少ない、極めてぬるい空気の街をイメージしていました。

そして「あのまなざし」とは、その時点での彼氏のまなざしではなく、多分1番のエピソードにある、海辺で初めて「好き」と言ってくれた時のまなざし、ではないでしょうか。

今でこそほとんどデジカメになってしまいましたが、当時は言うまでもなく、写真とはフィルムなり印画紙なりに「焼き付ける」ものでした。20歳の春に撮った三枚目の写真には、彼氏の姿はない。でも、それを眺める自分の心の印画紙には、最初に告白してくれた時のあのまなざしが、確かに焼きついている。

石川さんは、3番の「目をそらしてもいいのよあなた」のところに胸がキュンとなる、と述べていますが、これは彼氏に「本当は気持ちが冷めているのに、私の目を見て無理に"好き"っていうようなことは、もうしなくていいのよ。そんなプレッシャーからこれで解放してあげるわね。」という、若干皮肉を含んだ諦念の言葉でしょう。

...私はそう解釈していて「物語性がある」と感じていましたし、石川さんもほぼ同じように見ているらしいと知って単純に喜んいたのですが、小林さんの他の論があまりにもハイレベルなので、だんだん自信がなくなって参りました。

次に、この論で松田聖子さんを引き合いに出すのはあまり適当ではないと思えます。
「三枚の写真」が書かれた時点では、彼女はまだデビューしていません。ここで比較の対象になるのは、当然太田裕美さんになるはずです。

この頃の松本さんは、
恋の始まり→楽しいけれど少し不安→切ない別れ、

...の「白い色は恋人の色」タイプの詞をたくさん書いていて、太田さんや岡田奈々さんに提供していました。

「三枚の写真」もその流れの線上で、という注文を受けて書かれたものではないでしょうか。
(最近の松本さんは、「若い頃は歌謡曲は大嫌いだった。あまりにも詞がくだらないので、それならば自分で書いてやろうと思った。」とよく述懐していますが、彼の歌謡詞は北山修さん的抒情のトレースからスタートしたことは間違いないものと思われます。
近年の松本さんは歌謡詞を卒業したと称して上層伝播に凝っていますし、「自分の出自はあくまでも日本語ロックであって、はっぴいえんどが全ての始まりで、それから単身歌謡界に乗り込んで"革命"を起こした。」

...という自分史にしたい彼にとって、この経歴はまさに「不都合な真実」なのでしょう。)


この詞が「観念的」という批判を受けるとすれば、それは男性が作り出した「理想の女心」だから、ということではないでしょう。

17歳の秋に早くも別れ(浮気?)を予感していながら、最終的に
別れを決断したのは20歳の春というのは、いくら長すぎた春といっても、間延びしすぎですね。
2年半もの間、この女性は何をしていたのでしょう。3番が「18の頃、あなたは20歳」でけりをつける詞ならばそう不自然な印象にはなりませんが。
おそらく三木聖子さんがレコーディング当時、20歳の誕生日を迎えたばかりだったということがスタッフの念頭にあって、オチをつけるところでは彼女の年齢を「20歳」に設定してほしい、という注文がなされた可能性もあると見ています。

それならば1番を「17の頃、あなたは19...」でスタートさせる手もあったはずですが、さすがの松本さんもそこまでは気がつかなかったのでしょう。

それに2番には「写真を撮った」ことを匂わせるフレーズは一切ありませんし、3番で自分ひとりだけの写真を撮ることになった動機がよくわかりません。

成人式、は既に季節はずれですし...短大の卒業式あたりでしょうか。そもそも1番のエピソードの時に一枚しか写真を撮らなかったというのも首を傾げます。
この時は彼氏も気合いが入っていたでしょうから、24枚撮りのフィルム1本まるごと使って彼女やふたりの写真をたくさん撮り、すぐに現像してくれたと考えるほうが自然ですよね。

それに、これだけ長くつきあっていれば、「三枚の写真」以外にも恋愛の思い出になるものが山ほどたまっているはずです。そのような粗もありますが、当時の松本さんの力量が「隠し味」的にきちんと入っていますし、小林さんが見るほどには悪くない、というのが私の評価です。


小林さんの「シングル曲ベストオーダー」にもコメントさしあげてよろしいですか。これはとても面白く拝見しました。

「にわか雨」を出すのならば「まちぶせ」の前に、という発想には瞠目しました。小林さんのプロデュース案は、現実の歴史よりははるかに気が利いていますが、岩崎宏美さん、伊藤咲子さんあたりの売り出しメソドロジーに似ているかな、という印象を持ちました。

1978年時点ではそのような売り出し方は既に古臭くなっていて、ミュージックシーンに到底ついていけそうにない、という空気があったのかもしれませんね。

ピンクレディーが圧倒的な人気を誇る一方で、現在「大御所」級の存在感を見せている、いわゆるニューミュージック・ロック界のスターたちの人気が定着し、音楽ファンの好みの二極化が目立った時期に、岩崎さん風の歌謡曲歌手を新たに育てることは容易ではなかったでしょう。

初期の石川さんには「哀しい妖精」のような曲が合うのではないか、と述べていた人は他にもいますが、南沙織さんの曲で言うならば、カバー曲をあっけらかんと歌っていた「わたしはひ・と・み」カセットテープの時代に「ともだち」あたりを持ってくれば面白いのではないかと思います。

有名な「17才」は、後年カバーした人も出ましたが、この時点ではまだ南さんのイメージが強すぎたことでしょうし、「純潔」や「早春の港」は、当時の石川さんにはいろいろな意味でまだ早すぎたでしょうから。

いきなり現れて、長々と失礼しました。
私にとって、石川さんの歌に親しんだ頃は既に「遠い思い出」になりかけています。

サイト運営当時にたくさん集めた資料や、全て揃えていたシングルレコードやLPも、昨年半分ぐらい手放しました。

今、石川さんに望むことは、元気で歌い続けてくれること、それだけです。小林さんのように楽曲や歌手としての歩みを精緻に考察するファンがいらっしゃることで、石川さんも歌手になってよかった、好きな歌を存分に歌えて幸せだったと、多分に救われるものと思えます。同時に「Feeling石川ひとみ」があることで、私も心置きなくファン活動を引退することができそうです。

ありがとうございました。



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2010年7月28日 23:38ブログ記事一覧です。

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