『いちご白書』をもう一度 ......時代の感受性について

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 The Reborn Songs ~すずらん~ から、「『いちご白書』をもう一度」を聴いて、この歌に対する怒りのような感情が静かに融解していく兆しを感じるのを、認めないわけにはいかなかった。
 
 ばんばひろふみが歌う「『いちご白書』をもう一度」を耳にすると、時代的な共感と同時にそれに勝る怒りの感情を抑えきれず、どうしてもいらだってくるのが常だ。
 作詞・作曲者は荒井由実であり、もちろん松任谷由実自身も歌っているのだけれど、まだ小娘に過ぎなかった荒井由実が表現したものは傍観者であるノンポリ学生の感受性の世界であったろう。

 ばんばひろふみが歌うと、全共闘シンパくらいの手触りになるのだけれど、いずれにしても大衆意識の内側で展開される当時の都会人の感受性だといってよい。

 感性の解放とか、産学協同路線粉砕とか叫んでいた連中が、裏ではぬかりなく就活を行っていて、いつの間にか「『いちご白書』をもう一度」の歌詞のように、何らかの言い訳を口にして就職していく唇寒い光景だね。

 六〇年代末期は、確かに時代の大きな転換期だったろう。
 現代詩でいえば、戦後詩が終焉を迎え、六〇年代詩人たちが言葉の戦いを演じ、われわれの世代はその断絶の谷間でコンテンポラリーたちの声を聞き分けようと狂おしく息を殺していたのだ。

 堀川正美の詩、「新鮮で苦しみおおい日々」は「時代は感受性に運命をもたらす。」という有名な一行から始まる。

 時代によって運命をもたらされた感受性をもったものたちの多くは孤独な戦いを生き、あるいは倒れ、冷え切った怒りを心のどこかにかかえているはずだ。
 「『いちご白書』をもう一度」のような歌のどこを掘り下げてみたところで、そのような感受性は見いだせないだろう。
 そこにあるのは、割り切っていかねば先に進んでいけないという大衆意識だけなのだから。

 そういう者たちと、私は歌謡曲的な追憶の情など共有したくない、と。

 けれど、先日ジャン・リュック ナンシーの本を買おうとAmazon にログインしたところ、過去の購買履歴からユーザーの嗜好を解析したおすすめ品として、ひとみちゃんの「~すずらん~」がリストアップされていて、条件反射的に購入していたわけだね。

 正当派ではあるけれど技巧派ではない石川ひとみの、素直な歌声にも年輪が刻まれているのを感じないわけにはゆかない。素直な歌い方だけれども、深みが増して、上善水のごとしという熟成を感じる。

 と同時に、人前で歌う歌手の宿命で容色の衰えをさらさなければいけない現実...。歌のおばさんになっていく過渡期だけれど、「アイドルはつらいよ」だねェ。
 ここは、猫がおいたをしてしまいました、とでも理解しておきましょう。

 それで、山田直樹さんの音作りですけれど、一世を風靡したテクノポップ時代にシンセサイザーを使い始めた影響が痕跡をとどめているのかもしれないね。それこそが、「時代に運命を与えられた感受性」なのではないだろうか。
 私なども、その時代を通過してきているので、ことさら彼の音作りが技巧的だとは感じないのだけれど、坂本龍一らのイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を聴いていない人たちには、技巧的だと感じるのではないかな。

 それは、現代詩の世界で言えば「六〇年代の詩人」世代の影響と似ており、過激派的なものの歴史的な痕跡だといってよい。

 それにしても、現在の石川ひとみさんをバックで支えているのは山田直樹さんですから、Let it be, let it be. じゃないかな。

 アイドルは遠くにありて 想うもの
 って、それじゃお金にならん、か、の?

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