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    <title>Feeling 石川ひとみ</title>
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    <title>「音楽」...音楽の聴き方</title>
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    <published>2011-01-13T00:26:10Z</published>
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    <summary>　しばらく遠ざかっている間に、YouTubeの『まちぶせ』が200万回を突破していたのですね。　花も嵐も踏み越えて、（って古すぎる言いぐさですけれど）という感じで、すばらしいことです。　好きなものは好きなんだ、というのが当たり前、それが音楽の趣味なのですね。 ...</summary>
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        <![CDATA[　しばらく遠ざかっている間に、YouTubeの『まちぶせ』が200万回を突破していたのですね。<br />　花も嵐も踏み越えて、（って古すぎる言いぐさですけれど）という感じで、すばらしいことです。<br />　好きなものは好きなんだ、というのが当たり前、それが音楽の趣味なのですね。<br /> ]]>
        <![CDATA[　武満徹と小澤征爾の対談集『音楽』を読んでいましたら、音楽の聴き方という章で、次のようなお話をされていました。<br /><br /><b>竹満</b>　みんなが一致して超一流だと認めるような音楽は、僕には必要でないの、ほんとに。音楽はみんなにとって超一流である必要はないわけです。<br /><br /><b>小澤</b>　全くその通り。<br /><br /><b>竹満</b>　万人にとって世界一流の音楽とか二流の音楽とかなんてね、ないよ。<br /><br /><b>小澤</b>　僕も音楽の本質は公約数的なものではなく非常に個人的なもので成り立っていると思うんだよ。<br /><br /><b>竹満</b>　パーソナルなもんだ。<br /><br /><b>小澤</b>　パーソナルな、しかも量では計れないものだよ。<br /><br /><b>竹満</b>　僕もそう思うね。<br /><br /><b>小澤</b>　それが音楽のいいところなんだ。（中略）<br />　　　　だから、レコードが何万枚売れたとか、有名だとか、超一流だとか二流だとか三流だとか、ヘッポコだとかは重要でないわけ。一番大事なのはね、もしかすると、<b>人間と音楽が根本的にどこかでつながるかにある</b>んじゃないだろうか。<br /><br /><b>竹満</b>　音楽の歓びは人間の感情の一番底のほうにあるものでしょ。<br /><br />　　　　歌を歌うとかさ、そういうことが大事だってことをもういちど思い出さなきゃ。それと、小澤さんがさっきから言っていられることで大事なのは、音楽が非常にパーソナルな、個人的なものだ、一人ひとりの人間に一人ひとりの音楽があるということだからさ。<br /><br /><br /><br />　当代第一人者どうしの対談ですけど、わが意を得たりという感じですね。<br />　音楽ビジネスの世界と、趣味で聴く音楽の世界と、全く異なる世界であり、異なった価値観や基準がそこにあるわけです。<br /><br />　石川ひとみさんが「秘密の森」でなにか吹っ切れたように感じるのは、大ざっぱに言ってしまえば、<br />プロダクション主導の音楽ビジネス世界でのラットレースから降りて、音楽を自分の手に取り戻すことを決意したから、なのだろうなとあらためて思う。<br /><br />　<br /><br />　<br /><br />]]>
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    <title>「三枚の写真」　それから</title>
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    <published>2010-07-28T17:12:06Z</published>
    <updated>2010-07-28T17:15:16Z</updated>

    <summary> 　漱石ではありませんけども、「三枚の写真」の話が尻切れトンボになったままで、どうも気になりますので、一応説明を加えて幕引きをしておきたく思います。　 ...</summary>
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        <![CDATA[ 　漱石ではありませんけども、「三枚の写真」の話が尻切れトンボになったままで、どうも気になりますので、一応説明を加えて幕引きをしておきたく思います。<br />　<br /> ]]>
        <![CDATA[　前回までの話では、投稿の論旨に対して、<br />　「こういう考え方もある」ということを対置させて頂きました。<br /><br />　これは弁証法的なアンチ・テーゼと考えていただいてけっこうですが、<br />　それは相反する考えを対置させて、それを包含しうる考えを模索する、<br />　...という意味あいがあります。<br /><br />　ですから、この対置された考え方は必ずしも私自身の結論でもなく、<br />　ディベート的なアンチを対置させたに過ぎない部分があちこちあります。<br /><br />　私自身は５、６箇所の反論が出てくるのを想定しておりましたけれど、<br />　それらにさらにアンチを提示して、<br />　その全ての対立点を包含する視点を提示してみれば、３分の２くらいは自分の考えを示すことができるかな、<br />　...と考えておりました。<br /><br />　デリダ的にいえば、<span style="color: rgb(0, 128, 0);">「（アンチを）提示しているのは、ある種の郵便物の架空の署名者だということを、念のために指摘しておきたい」</span>ということになります。（『郵便絵葉書』についてのインタビューから）<br /><br />　<span style="color: rgb(0, 128, 0);">「そうした言述を仮託しているのは私ですが、私の名においては、またひとつの説（テーズ）としては、私はそう言わないでしょう。」</span><br /><br />　デリダは文学について語っていますが、私は弁証法におけるアンチ・テーゼの性格も、役割を仮託されたディベートのアンチであると、考えています。<br /><br />　そういうことですから、論争相手からしばしばあまのじゃくだと評されますけど、ある種のドクサを先入見として抱いていてそれに無自覚であるテーゼに対しては、その先験的なドクサをまず現象学的に解体･還元せずにはおけない、ということです。<br /><br />　たとえば、科学的＝真実だ、というプリミティブな物の考え方をする人が大多数ですけれど、私は常に科学とはセパレート（分科）な部分学である、と断り書きをします。<br />　歯科に行って腰が痛いと訴えても、来るべきところを間違えている、といわれるでしょう。<br />　外科に行って頭が痛いと訴えても...、内科に行って指をケガしたとうったえ...。<br /><br />　学者の論文を見ればすぐ分かりますが、<br />　・まずその論が取り扱うべき範囲を明示し、<br />　・学術用語の定義を定めて、<br />　・方法論と実験条件を明示して、<br />　・そのデータの取り扱い方を明示して、<br />　・その研究機関の場所および期間を示し、<br /><br />　初めて、論考がスタートするわけです。<br />　つまり、最初に提示した条件外のことについては、論考の対象外として論じない。<br />　これが、分科の学ということですね。分限をわきまえる、ということがもっとも重要な前提です。<br /><br />　学術論文ではない雑記事ではそういうことは手続きとしてやりませんけれど、方法論的には踏まえておくべきことです。<br />　社会科学のひとつとしてマーケティングを論じるばあいには、データが数字として意味を持つのは、そのデータが等質の物を扱うかぎりにおいてですね。<br />　個々人の価値観が多様であるような領域については扱い得ないし、意味のあるデータなど取りだし得ない。<br />　最低限の科学的条件を満たすものについてしか語れないよ、ということです。<br /><br />　<br />　余計なことを長く書きすぎました。<br /><br />　デリダは、表現が読者によって成立するということに触れて、次のように書いています。<br /><br />　<span style="color: rgb(0, 128, 0);">「文学の中には、確かに無責任の危険性（それは私ではないのだから、私は何でも言う）、あるいはまた、倫理と審美観とを混同する危険性、仮象として現れる危険性、フェティシズム（たとえば科学万能信仰など）の危険性があると思います。（中略）<br />　文学はもっとも大きな責任を呼びかけることができるものですが、それはまた、最悪の裏切りの可能性でもあるのです。」<br /><br />　「問い<font style="font-size: 1.25em;">－</font>同様にして、最悪の権利剥奪の可能性でもありますね。人が書いたものの剥奪をも含めて。」<br /><br />　「...そのとおりです。そして、剥奪はまた、愛の告白に署名さえしないという危険性でもあります。実のところ、文学市場に売り出されるやいなや、署名するのは私ではありません。」</span><br /><br /><br />　ここで相互テクスト性の迷路に入り込むつもりはありませんが、ディベート的アンチを、弁証法という方法論に仮託して提出した段階で、尻切れトンボになってしまっては、私が署名をする意味あいは全くないということになるかと思います。<br /><br />　私の見解の糸口を取りだしてきた段階で、宙ぶらりんでははなはだ不本意で、色々誤解されかねない危険性があるように思う。<br />　権利収奪以前の、権利不成立状態なのだ、と申し上げておきたいですね。<br /><br />]]>
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    <title>「三枚の写真」の脱構築？</title>
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    <published>2010-07-28T17:09:24Z</published>
    <updated>2010-07-28T17:11:48Z</updated>

    <summary>　これまで述べてきたような解釈のあり方は、多分ふつうのファンの方には深読みのしすぎではないか？　...という印象を抱かれるかもしれませんね。　とくにある作詞家のファンであるという場合、作者の意図を最大限に尊重すべきだと考えられるのが、ごく自然なことかと思います。...</summary>
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        <name>Y.K</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://mediaxross.com/">
        <![CDATA[　これまで述べてきたような解釈のあり方は、多分ふつうのファンの方には深読みのしすぎではないか？<br />　...という印象を抱かれるかもしれませんね。<br />　とくにある作詞家のファンであるという場合、作者の意図を最大限に尊重すべきだと考えられるのが、ごく自然なことかと思います。<br />]]>
        <![CDATA[　私が高校時代、ある国語の先生は、教科書にある作品の微妙な表現の意味を生徒に訊かれると、<br />　「作者に訊け！」とひとこと言って、ケリをつけるのが常でした。<br />　今ではありえないような先生がけっこういましたね。<br /><br />　それに続くのが、生徒が作者に直接問い合わせる、という場合。<br />　教科書に載っている谷川俊太郎の詩について、（実際の話）<br />　「この言葉は、...という意味にも、...というふうにも受け取れるのですが、どちらが正しいのでしょうか？」<br />　という質問に、谷川は「ぼくにも分かりません」と答えた。<br /><br />　すると今度は、生徒の国語担任から連絡があり、<br />　「どちらかにしてもらわないと、試験の採点ができません」と、...<br /><br /><br />　学校教育がいかに生徒や学生の頭をワンパターンに育て上げるかの見本ですね。<br /><br />　詩の核となることばは、ほとんどがインスピレーションのように降ってきます。<br />　これは、様々な体験や知覚経験を、脳が自律的に整理して記憶野に納める働きに関係してきます。<br /><br />　そのことばは最初の一行である場合もあるし、<br />　構成的な要因で最後のひとことであったり、<br />　途中でさりげなく置かれたり。<br /><br />　ともかく、核になる言葉が生まれると、次のことばが引き寄せられ、<br />　それを受けて次の言葉が出てくる。<br /><br />　この時、作者は自分に取り憑いたような、ある種のハイな精神状態になっていて、<br />　その状態で生まれた言葉というのは、後から考えて、自分でもよく説明できないものがあります。<br /><br /><br />　けれども、さらにそれを推敲する段階で、様々なレトリックを考えたりして意識的に構成する際に書かれた言葉は説明できる。<br /><br />　それにしても、決定稿に至るまでに、再び最初の精神状態を呼び戻して、手直しをした場合など、やはりよく説明できないものもある。<br /><br />　そういうものが入り交じっていると考えたほうが、実作から見れば真実に近いのだと、いえるようにおもいます。<br />　特に、最初のインスピレーションで生まれた言葉などには、それ自体で完結している、といえるほどの時があります。<br /><br />　そういう言葉の場合、作者の説明をも跳ね返すのではないか。<br />　あるいは、説明しだしたらきりがなくなる。<br /><br />　かくして、できあがった作品は、発表されたときから、作者を離れて表現それ自体で自立していく。<br />　ですから、すでに発表してしまった作品について、作者が解説するとかいうことはほとんどないわけです。<br /><br /><br /><br />　そこで、こんどは読みの問題が加わってきます。<br />　かつての解釈の基本的な考え方は、作者の表現意図をいかに読み取るか、<br />　...という受動的な読み取りを旨としていました。<br /><br />　国文学研究とか外国文学研究とか、いわゆるアカデミズムの学者の考え方ですね。<br />　そこでは、独創的な解釈は明確な根拠がないかぎり保留され、<br />　重箱の底をつつくような些末なことの実証的研究に埋没していく。...<br /><br />　たとえば、大岡信の万葉集や古今和歌集の著作と、岩波古典文学大系とを読み比べれば、アカデミズムの砂をかむような舌触りが明確に感じられるでしょう。<br />　（けれども、大岡信や安東次男、吉本隆明らの仕事は、アカデミズムの文献を最大限に参照して、なされます。無意味だというつもりは毛頭もありません。文化的遺産ですから、ありがたく利用させていただきます）<br /><br />　問題なのは、<br />　そういうアカデミズムにごく一部触れた程度の庶民レベル知的ミーハーは、<br />　その流れとして、我田引水的な引用や解釈はダメだと、<br />　自分はなんら深い解釈もできずに、表面的な理解で批判的な言辞を弄することでしょう。<br /><br />　石川ひとみ『秘密の森』の解釈の時に、YouTube 
あたりに集う一次言語スピーカーが、<br />　「深読みだ、過剰な思い入れをしている」という軽薄な批判をしていますけれど、<br />　何度も啓蒙的な文章を書くのは徒労ですから、あら
かじめ前置きをしておきます。<br /><br /><br />　...そういう伝統を革新するように、<br />　ソシュール言語学は言葉をそれ自体、固有の秩序をもつひとつの体系だととらえ、自立性をもつものだと考えました。<br /><br />　言語は記号（シーニュ）の組織された体系であり、<br />　記号表現＝意味するもの（シニフィアン）と、<br />　記号内容＝意味されるもの（シニフィエ）という、<br />　...不可分の二面性をもつ、と。<br /><br /><br /><img alt="signe01.gif" src="http://mediaxross.com/gazou01/signe01.gif" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0pt auto 20px;" width="521" height="122" />　ソシュールのシーニュというのはただの単語を意味しているのではなく、<br />　言語表現であり言述であり、テクスト自体でもある、とされます。<br /><br />　上図で、一次言語といっているのは、辞書的な既製の言語を意味します。<br />　二次言語というのは、その表現面であるシニフィアン b が、既製の一次言語からなるような言葉であり、<br />　その意味される内容であるシニフィエが、辞書的な既製の意味体系にはなかった新しい意味であるコノテーションをもつ言語だということですね。<br /><br />　コノテーション（共示的意味）というのは、デノテーション（外示的意味）と共に、言語の意味論の中で用いられます。<br />　デノテーションは、簡略な辞書的意味、つまり語の最大公約数的で抽象的な意味のことです。<br />　コノテーションは、語のもつ個人的･状況的意味になりますが、丸山圭三郎によれば３種類に分けられるのだ、と。<br /><br />　第一のコノテーションは、デノテーション以外に付随してくる個人個人の経験や思想がもたらす思い入れ的な意味あいですね。<br />　第二のコノテーションは、その社会のある時期に色づけされる共同主観的付随概念。<br /><br />　現在でいえば、「アングロ・サクソンにならなければ、アングロ・サクソンと対抗できない」などという表現です。<br />　最初のアングロ・サクソンは、徹底的な論理思考を持ち、明確な事業戦略を構築できる能力を持つグローバルなビジネス人種という意味であり、次のアングロ・サクソンは、イギリス･アメリカ人一般をさしているでしょうか。<br /><br />　第三のコノテーションは、既製の意味体系･シンタックスの中に閉じ込められていく人間の意識を、言葉の本質的表現作用を通して解放する主体的なアプローチをいいます。<br /><br />　私はフッサールの現象学を学んで、デカルト的コギトの内包する先入見を排して、現象学的還元から思考するという意識がありますので、コノテーションの分類に納得がいきますね。<br /><br /><br />　こうして、ソシュールから、ロラン・バルト、ジェラール・ジュネット、モーリス･ブランショ、バシュラール<br />　そしてジャック・デリダという現代フランスの言語学的哲学の流れが、<br />　まったく新しい表現と解釈学の世界を切り開いています。<br /><br />　現在の現代詩（過去の現代詩に対して）を書いている第一線の人たちは、ほとんどがこういうものを踏まえていて、彼らの詩論などを読むと、おフランス語が頻繁に出てきて、読むのに一苦労するのだ。<br /><br />　そんな中で、デリダは「意味は表現に固有のものと信じられてきたが、<br />　読むことによって表現の意味の変形が必然的に伴う。<br />　したがって、読むことと意味との無眼の往復運動がそこにはあるだけだ」という差延作用を主張し、<br />　従来の意味概念を解体する考えを示した、とされる。<br /><br /><br />　...とされる<br />　...サルトルやメルロ･ポンティなどフランス語の言い回しがどうも感覚的に理解しにくく、好みではない。<br />　...ので上に上げた人たちの本はすべて読みかけのままホコリをかぶっています。<br /><br />　デリダは購読したこともない。ので、間接的にしかいえない。後れているのだ。<br />　のですが、アマゾンを覗いてみると、<br /><br />　『デリダ』－脱構築－<br /><br />　内容（「BOOK」データベースより）<br />&nbsp;「形而上学や伝統が、<br />　内部/外部、自己/他者、真理/虚偽、善/悪、自然 /技術、男/女、西洋/非西洋などと<br />　階層秩序的二項対立を立て、支配的な項の純粋現前を追求することには、<br />　そうした思考ではとらえられない「他者」を排除する欲望が潜んでおり、<br />　脱構築的思考はその欲望を暴き出そうとする。<br /><br />　しかし脱構築とは否定に終始するニヒリズムではなく、<br />　他者を他者として受け入れ、その呼びかけに応え、決して現前しない「正義」の到来を志向する。<br /><br />　それは哲学、芸術から政治、倫理、法、宗教などあらゆる営為をとらえ直す、<br />　ラディカルな「肯定」の運動である」<br /><br />　（...などというのに釣られて、とりあえずいくつか買い込んで、読んでみようと思う。<br />　でもその前に、ホコリをかぶっているおフランス語の皆様の本を読まなければ、たどり着けない。<br />　ソシュール小辞典も買ったし、あと数年は時間をとられるかも。<br /><br />　デリダは、ドイツ哲学のフッサール、ハイデッガーの批判的継承者の流れだというので、<br />　当然私の考え方とつながる部分もあるかと思いますが、我が国のデリダ系の人たちは好みではない）<br /><br /><br />　有益なコメントを頂くと、理解も考えも深まります。<br />　でも、ここから先になると、だれも読まなくなるでしょう。<br /><br />]]>
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    <title>『三枚の写真』の物語性と詩的表現性</title>
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    <published>2010-07-28T17:06:29Z</published>
    <updated>2010-07-28T17:08:28Z</updated>

    <summary><![CDATA[　　YouTube の動画をかってに引用させていただいているのに、非妥協的なことを平気で書くお子様なわたしですので、今回はひとりごとで話を発展させていきたいとおもいます。&nbsp; ...]]></summary>
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        <name>Y.K</name>
        
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        <![CDATA[　　YouTube の動画をかってに引用させていただいているのに、非妥協的なことを平気で書くお子様なわたしですので、今回はひとりごとで話を発展させていきたいとおもいます。&nbsp; ]]>
        <![CDATA[　はじめに、前回書ききれなかった映像性です。<br />　「あのまなざしは　焼きついてたのに」<br /><br />　私が思い浮かべるのはTVや映画の二重写しのシーンですね。<br /><br />　彼がゆっくりと顔をそむけて街の灯を見入る<br />　→それにあわせて、映像が次第に薄くなる。<br /><br />　そこに、笑っている写真の彼の顔が、<br />　初めはうっすらと、そして次第に鮮明になっていき、二重写しとなる。<br /><br /><br />　と、まあこのような映像表現が成立するためには、<br />　・私はじっと、あなたの目を見つめ続けている<br />　・彼は目をそらして、顔もそむける<br />　→その横顔に、写真のあなたのイメージが重なって、対比を見せる<br /><br />　...ということがないと、「去年（こぞ）の雪　今いずこ」の対比的映像表現とはなりにくい、<span style="color: rgb(0, 128, 0);">と考えたほうが真相に近いと思います</span>。<br />　「私」が街を振り向いてしまうと、視点が移動して、二重写しのイメジが成立しにくくなるし、拡散霧消していくのではないかな。<br /><br /><br />　それとも、作者がそこまでは考えておらず、テレビでよくある「主人公が相手から顔をそむけ自分の内面的な世界に入ってしまう、つまり哀しみをこらえる」シーンを表現しただけなのか、と。（ありきたりですね）<br /><br /><br />　そういう解釈になると、３番の歌詞は演歌的な抒情を都会的なシチュエーションに移し替えて、シャレた映画ふうに書いただけのもの、という評価にならざるを得ないのではないかと、わたしなどは考えてしまうけどね。<br /><br />　そのように、１番、2番、３番が同じような流れで平板に来ていると考えれば、それは散文的な表現であるし、すなわち語り物の表現だといってよいのでしょうね。<br />　それは散文脈であり、すなわち、詩的表現性に乏しい、ということになる。<br />　物語性が豊かだ、という褒めことばは、詩人にとってははなはだ不都合な真実となってしまうかもしれない。<br />　少なくとも現代詩人にとっては、冷笑されているのと同じでしょうね。（←「<span style="color: rgb(0, 128, 0);">と考えたほうが真相に近いと思います</span>」とか、いわないと、きつすぎてダメなのだな...）<br /><br /><br />　じつは昨日、ヤフオクで落札した現代詩読本を読んでいまして、<br /><br />　大岡　信　　　　　詩とことば<br />　谷川俊太郎　　　詩とうた<br />　田村隆一　　　　 詩と都市<br />　三木　卓　　　　　詩と生活<br />　中村　稔　　　　　詩と形式<br />　山本太郎　　　　 詩と韻律<br />　入沢康夫　　　　 詩と体験<br />　渋沢孝輔　　　　 詩と批評<br />　鮎川信夫　　　　 詩と時代<br />　吉本隆明　　　　 詩と古典<br /><br />　（プロ野球の画面をあっちこっち切り替えながら）ずらっと、本を斜め読みをしていると、最後の吉本の文章にぎくりとなりました。<br />　以下、昨日のメモを記しておきます。<br /><br /><br />　どうも、私は吉本隆明の言葉に追い回されている。<br />　ように感じることが、ときどきある。<br /><br />　自分がいろいろと思いをめぐらしているときに、待ち構えていたかのように吉本隆明の文章に出会い、<br /><br />　...というふうにかんがえられたほうが真相に近いとおもいます。」という高説に、そうよ！と思わずにんまりして、<br />　　そのあとこん畜生と腹が立つ。<br /><br />　詩と古典...評価の条件　　　吉本隆明<br /><br />　<span style="color: rgb(0, 128, 0);">「そうすると、『新古今集』というのは、現在論じられているイメージでは大変衰弱した内容を持った詩の世界だという評価と、いや、高級であり、かつ絢爛豪華な世界であるというような塚本（邦雄）的な評価の仕方、その両方とも違うんだということなんです。<br /><br />　当時の俗謡から徹底的に追い詰められたところで『新古今集』というのは成り立っています。逆にいいますと、『新古今集』の世界というのは、俗謡に大変近い世界だということです。そういうふうにかんがえ、評価されたほうがおそらくは真相に近いとおもいます。（中略）<br /><br /><br />　だから、当時の『新古今集』の世界を支配している感性的表現は俗謡に近い世界なんで、いまでいいますと、フォークソングみたいなものに近い世界なんだと理解されたほうが、『新古今集』に対する理解としては正しいとおもいます。」</span><br /><br />　以下、長くなりますので要約させていただきます。<br /><br />　<span style="color: rgb(0, 128, 0);">「『新古今集』は、当時の大衆社会化現象であり、いわゆる純文学と大衆文学との区別がつかなくなる。そういう状況の中で、強靱に詩の世界を固執しようとしたばあいに、出てくる出方のひとつが、主題を狭めるということです。主題を狭め、昇華作用をやっていくことで、文学の質を確保しようという意味を持っています。<br /><br />　歌が始まるばあいには対象を大きくとって、それをだんだんイメージで追い詰めていって、微細なところまでいくというのが『新古今集』の全般的な特徴です。<br />　そういうようにイメージをずうっと細く細く追い詰めていかないで、ちょっとでも拡散させてしまえば俗謡とさして変わりなきものになっちゃうんです。」</span><br /><br />　この文章で、古典一般を現代詩、俗謡を歌謡曲、フォークソングを松本隆の歌詞と置き換えて考えると、図式的に過ぎますけれど、むこうとこっちの違いがかなり理解できるように思う。<br /><br /><a href="http://mediaxross.com/assets_c/2010/06/sinkokin01-43.html" onclick="window.open('http://mediaxross.com/assets_c/2010/06/sinkokin01-43.html','popup','width=604,height=922,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://mediaxross.com/assets_c/2010/06/sinkokin01-thumb-540x824-43.gif" alt="sinkokin01.gif" class="mt-image-none" style="" width="540" height="824" /></a><br /><div><br /><a href="http://mediaxross.com/assets_c/2010/06/sinkokin02-47.html" onclick="window.open('http://mediaxross.com/assets_c/2010/06/sinkokin02-47.html','popup','width=604,height=929,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://mediaxross.com/assets_c/2010/06/sinkokin02-thumb-540x830-47.gif" alt="sinkokin02.gif" class="mt-image-none" style="" width="540" height="830" /></a><br /><br /><a href="http://mediaxross.com/assets_c/2010/06/sinkokin03-50.html" onclick="window.open('http://mediaxross.com/assets_c/2010/06/sinkokin03-50.html','popup','width=600,height=929,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://mediaxross.com/assets_c/2010/06/sinkokin03-thumb-540x836-50.gif" alt="sinkokin03.gif" class="mt-image-none" style="" width="540" height="836" /></a><br /><br />　これが「三枚の写真」とどうつながってくるのか、といえば、表現の追い詰め方だということですね。<br /><br />　すでにできてしまっている歌詞ですから、書き直すわけにはいかない。<br />　それならば解釈を深めて、２番でイメジを引き締めて、女性にとって永遠の感情を、歌唱力で表現して、<br />　３番の歌詞は淡々と後書きのように歌ってしまえば、移ろいと永遠というものをダブルイメジでとらえ、総体的に見ている幽玄の一曲となる、<br /><br />　というようにプロデュｰスできたら、かなりかなり深い、大人の歌になったのではないかな、ということです。<br />　もっとも、大人すぎて50歳くらいで歌ってもいいくらいになってしまいますけどォー、それを21歳の石川ひとみちゃんが歌う、そういうのを聴いてみたかったということです。<br /><br />]]>
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    <title>『三枚の写真』の映像性</title>
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    <published>2010-07-28T16:59:09Z</published>
    <updated>2010-07-28T17:06:23Z</updated>

    <summary>　 何か、取りこぼしていないかチェックしてみたところ、三枚目の写真の意味が不明だということですね。　これは吉田さんが候補としてあげた成人式を意味していると思います。 ...</summary>
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        <![CDATA[　 何か、取りこぼしていないかチェックしてみたところ、三枚目の写真の意味が不明だということですね。<br />　これは吉田さんが候補としてあげた成人式を意味していると思います。<br /> ]]>
        <![CDATA[　<span style="color: rgb(0, 128, 0);">別れを決断したのは20歳の春というのは、いくら長すぎた春といっても、間延びしすぎですね。<br />
2年半もの間、この女性は何をしていたのでしょう。3番が「18の頃、あなたは20歳」でけりをつける詞ならばそう不自然な印象にはなりませんが。<br /><br /><p>　それに2番には「写真を撮った」ことを匂わせるフレーズは一切ありませんし、3番で自分ひとりだけの写真を撮ることになった動機がよくわかりません。<br /><br />　成人式、は既に季節はずれですし...短大の卒業式あたりでしょうか。</p></span><br /><br />　この部分ですね、　　　　写真の　　　／　　春に<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　↓　　　　　　　　　↓<br />　　　　　　　　　　　　　　私の成人式　　　彼の卒業式<br /><br />　このように、写真と春の間に２ヶ月程度の間があるのかと解釈できます。<br /><br />　「わたし」と「あなた」の年齢差（＝<b>時間</b>）<b>が音楽の対位法的に、二重に流れています</b>ので、<br />　片方だけの理由からは全体がつかめなくなります。<br /><br />　それで、成人式の写真というのは、いうまでもなく振り袖姿かなんかの華やいだ私がいて、<br />　彼も祝福してくれて、これで一緒にお酒が飲めるねーなんて、どこぞのレストランでワインで乾杯<br />　ついでに記念写真でも...<br /><br />　って、こういうふうにイメージが走りすぎた話の場合、これを書いている筆者はもうすでに、一杯やっているとみてよい。<br /><br /><br />　それで、彼の方の時間では、卒業と共に「私」と別れるスケジューリングが進んでいるのでしょうね。<br />　あるいは彼は就職して５月病のあたりの時期なのか...その間に何かが決定的に変わった、と。<br /><br /><br />　基調...彼は、すでに「私」をかわいい<b>妹のような</b>感覚で見ている。<br />　解釈１...社会人になって、卒業お別れ（社会派）<br />　解釈２...彼の同級生の女性が<font style="font-size: 1.5625em;">↑</font>を阻止するために猛アタックして彼は仕留められてしまった（草食系）<br />　解釈３...就職先のおねー様に大人の女の魅力を感じて、大人の恋に走ってしまった！（肉食系）<br /><br />　わたしの経験では、１．２．３．どれも可能性が高いです。<br /><br />　まず２番の状況がやってきて、岩崎裕美の『熱帯魚』みたいな決めセリフをおっしゃって帰らない子が何人か現れます。<br />　でも聖人君子を通して、眠れない夜をやりすごし朝を迎える。布団は一組しかないのですけど、それはどうでもよい。<br /><br />　それで、解釈１に落ち着く。<br /><br />　そして晴れて社会人、制服をバリッと着こなした颯爽たる先輩女性とか、あるいは同期の女子大出身のニューフェイスとか、<br />　この年代の男の子は年上の女性に女としての魅力を感じるものですよ。<br />　同じ年の女性でも、この時期は、男より精神年齢が高いものです。<br /><br />　でも、多分松本隆的感覚では、きわどい時間差の二股愛乗り換え、<br />　...などという無粋なシチュエーションを設定することはないかと思います。<br /><br />　<br />　ここは、<b>「あなた」の中で、何かが決定的に変わった</b>、ということだけを押さえておけば、十分でしょう。　<br />　ですから、「<span style="color: rgb(0, 128, 0);">別れを決断したのは20歳の春</span>」なのではなく、「<b>22歳の別れ</b>」なのだと、私は思うなｰ。<br />　そうでないと3番の歌詞が成立しない。<br /><br />　そういう経緯があって、あのまなざしはごくごく自然に、<br />　写真（成人式の時に撮った一緒の写真）の彼の優しいまなざし、<br /><br />　...なのでしょう。<br /><br /><br />　２番の歌詞に写真を撮る表現はないのですが、<br />　ひとつの解釈として、単純に字数が制限されていて、より大事な表現を優先したからとも考えられる。<br /><br />　タイトルに「三枚の写真」とあり、３連の詩ですから、省略してもかまわないし、<br />　あえて３回も写真という言葉を入れる方がくどいし、平凡になるのです。序・破・急的な乱調に構成美がある。<br />　これは、年齢が不連続であることも同じ乱調の美意識があると思います。１７、１８、１９とかですと、平凡な並列にしかならない。<br />　...けれども、ことはさほど単純ではないようですね。<br /><br /><br />　そして、私の深読みかもしれないのですが、もう一つの解釈が成り立つような気がします。<br />　それは、３番の写真ですけども、もっと単純に彼の卒業式を祝って撮った写真ということも考えられます。<br />　確かに二人で撮った写真ですけれど、<span style="color: rgb(255, 33, 102);">あの優しいまなざしをした、（わたしの愛した）彼はいない</span>、と感じるわたし。<br /><br />　この場合、私ひとりが写っている写真ではないのでしょうね。<br />　自分ひとりの写真を置いても意味がないはずなので、<br />　<b>三枚の写真はすべてふたりが写っていなければいけない</b>はず。<br /><br />　そうなると、また疑問が出てきますね。<br />　あのまなざしはどの写真なんだ、とか...<br /><br />　ひとつの解釈は、２番の歌詞では、お互いの写真を撮りあっていて、ふたりの写真がなかった。Oh my ...！<br />　...ということはないでしょうね。<br />　きっと、いろんな写真でアルバムが一杯になるほど撮っているはずですが、それらはみんな１番の写真とシームレスに続いている。<br />　シームレスではあるけれど、二人の心の有り様は少しずつ温度差が広がっているのでしょう。でも決定的なものではない。<br /><br /><br />　それに対して、３番の歌詞では、「わたし」の成人式祝いの写真、「あなた」の卒業式祝いの写真、と続くのではないでしょうか。<br />　これは、すこしイレギュラーで、強引な解釈ではないかと思われるかもしれませんが、そうでもないようです。<br /><br />　写真の意味と歌の意図を付き合わせてみると、<b>重要な節目</b>としては、<br />　<b>「わたし」の成人式</b>と<b>「あなた」の卒業式</b>は等価であり、優劣つけがたい意味の重さを含んでいます。対位的に同列ですね。<br /><br />　乱調の美意識からすれば、３番の歌詞に２枚の写真が来てもいっこうにかまわないし、それが妙味だとも受け取れる。<br /><br /><br />　まあ、このようにいろいろな解釈が出てくるあたり、他の作詞家とはひと味違った松本隆の奥深さかもしれないね。<br />　吉田さんのおっしゃる、松本隆の隠し味が効いているというのは、こういうところかな。<br /><br />　<br />　ということで、吉田さんのお考えもけっして間違いとかそういうことではなく、女性の立場からの深い解釈だと思います。<br />　私は男の考えに偏りすぎているかもしれないし、<br />　この歌詞の１番と2番で常套的表現が気に入らないということがありますけれど、<br />　<br />　これだけ論じることができるということに、松本隆さんのレベルの高さを感じました。<br /><br />　<br />　と、ここで曖昧になっていたことが、突然はっきりしました。<br /><br />　「目をそらしても　いいのよあなた」<br />　...というのは、もう恋が終わった後の、写真を見ながらの回想と、時制が同じなのでしょう。<br />　つまり、「わたし」は「あなた」に対して、一度もこのような言葉は投げかけていなかった、と。<br />　過去の写真に向かって、内面的につぶやいていますが、現実には言ってないのではないか、という解釈もなりたつ。<br /><br />　ただし１番の歌詞の場合、海辺ではしゃぎながら現実に言葉を発したと考えた方がよいかもしれない。<br />　けれども、３番では過去の写真に向かってつぶやいている、と考えるのが妥当に思える。<br />　そう考えると、２番は「目をそらさずに　好きって言える」と尋ねたくともできなかった内語なのだ、と。<br /><br />　１番のリフレインは「実際の言葉」、<br />　２番のリフレインは「言いたくとも言えなかった言葉」、<br />　３番のリフレインは「回想のつぶやき」...という色づけがなされているのでしょう。<br /><br /><br />　だから、過ぎた月日が　残したものは　あゝ三枚の写真だけです　とつながっている。<br />　そう考えれば、このリフレインは無粋で粗雑なセリフではなくなるね。<br />　１番はさほど罪はないけど、２番の状況ではうざく感じるし、愁嘆場になる、<br />　...ということを、作者はわかっている、と。<br />　<br />　なるほど、上のように考えてみれば、決して悪くはないね。<br />　そう解釈することによって、３番の歌詞で、<br />　「それでも　私は、あなたを愛しているわ」...という裏の意味が明確に成立し、言外ににじみ出てくる。<br />　コノテーションをはっきりと意識して、言葉を組み立てていると。<br /><br />　これは、かなり手が込んでいます。<br />　フーガのように、タイムラグの情景が描かれているのですよ。<br /><br />　１番は、中学と高校あるいは高校生同士、同じような世界で同じ青春を歩んでいる。<br />　２番は、高校生と大学生で、彼の世界が変わり、二人の間に断層のようなものが生じはじめる。<br />　３番は、彼が社会人になっていく時期で、その断層が決定的になってしまう。<br /><br />　まさに恋のフーガですね。ザ・ピーナッツにずばり「恋のフーガ」という歌がありました。<br />　あちらは双子の歌の構成として音楽的な意図が強くつくられていますが、<br />　こちらの恋のフーガは、内容的なものが３枚の写真として、象徴的に作詞されている。<br /><br /><br />　けれども、ここまで解釈してくれる大衆っていないよ。<br />　現在なら、インターネットでチェックしてみれば、酔狂なおじさんがウンチク傾けていたりするけど、<br />　当時、どれだけ理解されていたのか...<br /><br /><br />　それにしても、だ<br />　うーん<font style="font-size: 0.8em;">ん<font style="font-size: 0.8em;">ん</font></font>...、でも微妙だね。ふつう、こういう気持ちがどれだけ持続するか、なんだよね。<br />　この時はそう思った。でも今は、別な恋に夢中で、昔のことは忘れたわ、<br />　というのが女性によく見られるパターンですが、どうなのでしょう。<br />　やはり、これは男の願望をすくい取っている歌詞だと思うけどね。<br /><br /><br />　私の場合、小学生の時の初恋の女の子が、中学進学で別々になり、<br />　以来今日まで、心の中に空洞があって、誰によっても埋められないものがあるのを感じます。<br />　夜中に昔の夢を見て、いいようのない悲しさむなしさを感じることがある。<br />　彼女のイメージが <font style="font-size: 1.25em;"><font style="font-size: 1.25em;">↓</font> </font>この子に重なるのです。<br /><br /><img alt="hitomi_chu2.jpg" src="http://mediaxross.com/gazou01/hitomi_chu2.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0pt 20px 20px 0pt;" width="200" height="299" />たぶん、石川ひとみさんを見るたびに、初恋の感情がよみがえるのだろうと思う。<br /><br />いいなー、というひたすらそれだけの感情ですね。<br />愛してるとか好きだという気持ちではないのでしょう。<br /><br />そういうふうには感じたことはないのです。<br />ただ、「いいなー」なのです。<br /><br />このようにいつまでも引きずっているのが男性性の特徴ですけれど、<br />女性の場合は、感情を吐きだしてしまえば、男のようには引きずらないかと思います。<br /><br />別れを告げられた（と解釈して）、その相手を「それでも愛してる」（と解釈して）、<br />...ということが<br />女性の場合、一般的にありえるのかな、と思うわけです。その辺は、よく分かりません。<br /><br />私の母が65、６歳の時、母の郷里の青森からひとりの老人が尋ねてきたそうです。<br />その人は、母が17歳の頃恋愛した男性で、相手は地元の大地主の息子、母は水飲み百姓の娘、ということで無理に別れさせられて、母はむりやり東京に就職させられたそうです。<br /><br /><br /><br />男はこういうところがあるのでしょう。忘れられなくて、はるばる探してきた。<br /><br />　でも、三木聖子さんはいざしらず、<br />　石川ひとみさんの場合は男っぽいから<span style="color: rgb(0, 180, 0);">（←いつのまにか...）</span>、<br />　ずっと忘れないでいてくれる、と。<br /><br />　そう主張してくれる女性がいないと、バカな男は救われないよネｰ。石川ひとみ、いいナー。<br /><br />　まあ、石川ひとみファンの大半は男性だと思いますので、この歌詞の意味が解れば、もっと売れてもよかったはずだねぇ。<br />　<br /><br />　今日はプロ野球交流戦もなく、まともに思考が持続しました。<br /><br /><br />　【コメント】<br />  <p>　自分の記事に自分でコメントを入れてしまいました。</p>

<p>　粋だとか無粋だとか古くさい言葉を使って話を進めましたので、伝統的詩歌観の持ち主だと思われたかもしれません。<br /></p>

<p>　現在、そのような詩歌観の人たちと対立していますので、そうでもないのですけどね。<br /><br />
　先ほど丸山圭三郎という言語学者の『言葉･狂気・エロス』という本を読み始めたところ、たいへん共感することが前書きに書いてあり、紹介したくなりました。<br /><br /></p>

<p>　「なぜ私たちは、異なるもろもろの文化や時代における人間の生き方の違いに対しては鋭い感覚をもっても、人間の原本的な特性に対しては奇妙に鈍感なのであろうか。<br /></p>

<p>　現在問われているのは、資本主義か社会主義か、市場経済か計画経済か、生産中心主義か消費中心主義かなどの顕在的対立の底にある汎時的（＝時代と地域を越えた）視点からとらえられる人間像なのである。<br /></p>

<p>　汎時的視点とは、決して複数の相対的個別文化（欧米、そロシア、中国、日本、第三世界など）から帰納して普遍的絶対を求めるものではない。<br /><br />
　特定共時文化とその歴史を横断的に重層的なテクストとして読む営みを通して見えてくるものは、私たち一人一人の個体を深層において支配する元型でもなければ、人間の欲望の同一ルートでもなく、むしろその逆に＜言葉を話す人＞＜象徴を操り操られる動物＞が生きる世界の質的差異と文化の無根拠性である。<br /></p>

<p>　「中略」<br /></p>

<p>　歴史にも人間にも終焉はない。あるものは絶えざる差別化という生の円環運動だけであり、これが停止したときに待っているのは、生の昂揚とはほど遠い動物的死か、狂気なのではあるまいか。」<br /><br /><br /></p>

<p>　「目をそらさずに　好きって言える」という歌詞に違和感を感じる理由をうまく説明してくれていると思います。<br /></p>

<p>　松本隆は欧米映画のセリフみたいなものに新鮮さを感じて、日本の恋歌に取り入れて、それがこの歌詞の新しさとして露出しているわけです。</p>

<p>　この感覚は、方言などに接しても感じる新鮮さで、言葉の感覚としては悪くないのですが、それと同時に、そういうものを使う場合私たちの原本的な特性を十分に考慮しないといけない、ということですね。<br /></p>

<p><br />
　けれども、私はここ数日、自分はまだ本当の考えを出してはいないという思いをずっと持ち続けていました。<br /></p>

<p>　私が書いたことを、根底的にひっくり返す考え方も、私自身が持っているし、さらにそれを根源的に否定する本音を隠している、という感じがします。<br /></p>

<p>　本当のことを言ってはまずいな、ほかの人の言辞まで根源的にノーだと言ってしまうから、ということです。</p>
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    <title>再『三枚の写真』</title>
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    <published>2010-07-28T16:33:45Z</published>
    <updated>2010-07-28T16:38:40Z</updated>

    <summary>　この「三枚の写真」がなぜ観念的であるかと言えば、　構成の面からみると緻密に構成が考えられており、　ことばの表現からみると、その構想を力業で成立させるために意味的な喩が多用され、像的なイメジが希薄、　現実との照応においては理念（理想）の方が上位に置かれている　...ということになるかと思います。 ...</summary>
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        <![CDATA[　この「三枚の写真」がなぜ観念的であるかと言えば、<br />　構成の面からみると緻密に構成が考えられており、<br />　ことばの表現からみると、その構想を力業で成立させるために意味的な喩が多用され、像的なイメジが希薄、<br />　現実との照応においては理念（理想）の方が上位に置かれている<br />　...ということになるかと思います。<br /> ]]>
        <![CDATA[<br />　　観念的なのは男性性の特質ですから、それが悪いわけではありません。<br /><br />　私は女性の詩をほとんど読みませんが、合評みたいな時は否応なしに読まねばいけない。<br />　ほとんどの方が、女性独特の皮膚感覚的な「発話者＝作者で、自分の感情＝直情的抒情」である表現をします。<br /><br />　「三枚の写真」の２番ですけれど、彼のこころが冷えているのを感じている時期に、<br />　「目をそらさずに　好きって言える」と、現実に言ったとしたら、愁嘆場になるかと思います。<br />　演歌的な、どろどろした男女の感情的なせめぎ合いになって、<br />　その後は、典型的な腐れ縁以外の何物でもなくなってくるかと思われるわけですね。<br /><br />　ところが、この歌詞では「冷たいねって　涙おとした」と、さらりと流しているわけです。<br />　愁嘆場にはしない。<br />　一つには、演歌的表現を嫌う、から。大衆の底辺的現実からは確実に遊離あるいは上昇させている。<br />　二つめは、愁嘆場にしてしまえば、３番の別れが鮮やかに成立しなくなるから。<br /><br /><br />　ここには、女性の側からみた皮膚感覚的なものはスパッと切り落とされており、<br />　男にとって理想的な別れが見いだされるだけです。<br />　大多数の男ってヤツは、こういうふうに別れられたらいいな、と思うはずです。<br /><br />　ところが、現実にはこんなふうにはいかない。<br />　人目をはばからず、女性が男に取りすがって泣く光景を数多く見てきました。<br /><br />　別ブログで由紀さおりの『手紙』について書きましたけれど、なかにし礼は「自立した女性が好きだ」と言っていました。（別ブログは閉鎖しました）<br /><br />　この「三枚の写真」では、そういうことはテーマになっていませんけれど、<br />　男にとって望ましい女性像を描いているのは変わりがない、と私は思います。<br /><br /><br />　<span style="color: rgb(0, 128, 0);">17歳の秋に早くも別れ（浮気?）を予感していながら、最終的に
別れを決断したのは20歳の春というのは、いくら長すぎた春といっても、間延びしすぎですね。<br />　 2年半もの間、この女性は何をしていたのでしょう。3番が「18の頃、あなたは20歳」でけりをつける詞ならばそう不自然な印象にはなりませんが。<br />&nbsp;<br />　おそらく三木聖子さんがレコーディング当時、20歳の誕生日を迎えたばかりだったということがスタッフの念頭にあって、オチをつけるところでは彼女の年齢を「20歳」に設定してほしい、という注文がなされた可能性もあると見ています。<br />&nbsp;<br />　それならば1番を「17の頃、あなたは19...」でスタートさせる手もあったはずですが、さすがの松本さんもそこまでは気がつかなかったのでしょう。</span><br /><br />　女性の側に焦点を当てて考えれば、そういうこともあるかと思います。<br /><br />　私の見立てでは、作者と作中の「私」がイコールでないのと同様、歌手と歌詞の「私」はイコールではない、というのが表現の前提ですね。<br /><br />　谷川俊太郎の詩の一節に<br /><br />　　　<span style="color: rgb(0, 180, 0);">たとえぼくは悲しいと書いてあっても<br />　　　そのときぼくが悲しかったわけじゃないのをぼくは知っている</span><br /><br />　...というのがあります。<br /><br />　表現されたものは、それが全てである、というわけです。<br />　この歌は、タイムラグに表現の意図があるのだといいました。<br /><br />　以前の記事で取り上げたのは、「あなた」である彼が22歳になって、どのような世界の広がりに対峙しているのかを重点的に取り上げています。<br /><br />　学園青春を謳歌する世界から、容赦なく厳しい仕事の世界・社会人としての世界が彼の前に重く立ち現れてきているのだ、と。<br /><br />　ですから、前に書いたように、「私」の年齢移行と、「あなた」の年齢移行を両方見ていくことによって、<span style="color: rgb(255, 0, 0);">同じ青春を歩むことができなかった理由</span>が浮き彫りにされてくれはずです。<br /><br /><br />　決して松本さんはこの部分を無意識に書いてはいません。<br />　芭蕉が意味のない「てにおは」ひとつの使い方でも、歌が生きもし死にもすることを論じています。<br />　表現者はその重要性を十分理解していますので、歌詞の中のどの言葉ひとつを取り上げても、作者の表現意識に検証されているものです。<br /><br />　「あなたはなぜ、詩を書くのか」、という問いは「あなたは、なぜ生きているのか」という問いと同じだ、と谷川は書いています。<br /><br />　一言半句といえども、作者は表現者としての命を賭けて書いているのです。<br />（谷川さんは呼吸したり、食事をするのと詩を書くことが同列だと、言っているのですけど）<br /><br />　私のように晩酌をやりながら、ラジオでプロ野球中継に気をとられ、酔っ払っていい加減なことを書き散らしているのは、実に良くないのですね。<br /><br /><br />　「シングル曲ベストオーダー」は、まさに「にわか雨」が棚晒しで出す機会を失したなということを書くだけで良かったのです。<br /><br />　それで、私はCDやレコードを直接聴くことはなく、PCに取り込んで聴きますから、それを自分好みの順番に配列して聴けばこうなるかな、ということですね。それ以上の意味はありません。<br /><br />　すでにプロデュｰスされてあるものしかないわけですから、自分がプロデュｰスするとしたらということが成り立たない。部分（的なシングル曲）を集めても全体とはならないのは初めから明らかですからね。<br />　あれを読まれた方は、こいつ酔っ払ってるな...と思われることでしょう。<br />　酔っ払いの戯言、それが正解ですね。<br /><br /><br />　酔っ払って歌謡曲を聴くと、とたんに自分が音楽を聴いていた<b>懐メロの世界にどっぷり</b>となってしまう、ということで「テイストおぶ Favorite 」というページを作ったわけです。<br />　元々は、そちらのページがメインで、「まちぶせ」もその中の記事のひとつだったのですね。<br /><br /><br />　それで、今は削除した「e-BOOK作成講座」というブログで、カテゴリーキラーサイトの作り方の見本として、ファンサイトのたくさんあった石川ひとみさんのカテゴリーキラーサイトを作って、グーグル検索でトップページ表示をやってみせる、ということでした。<br /><br />　そこで、歌詞というキーワードを意識して使っていないことを分析して発見し、歌詞をキーワードに多用して「曲名＋歌詞」というグーグル検索では、どのページもトップページ表示という結果を実際にやって見せたわけです。１ヶ月がんばれば、できますよ、と実証しました。<br /><br />　現在は元のサイトもやめてしまいましたので、記事を書いてもグーグルにPINGを送らないし、アクセス解析もまったくやりません。<br />　記事を書かないブログは、どんどんランクが下がってしまうわけですが、いまは全然気にしていないわけです。<br /><br /><br />　問題があった場合だけ、どこかのページにあるように詳細なデータを取りだすだけですね。<br />　あそこのコメント狂さんが言っているような、「過去の幻想と、ひとみ愛の妄想にひたっている」ということは、まったくの的外れなのです。<br /><br />　以前のページには表示してあったのですが、私は「表現としての石川ひとみ」を考察しているのであって、他の作詞家が書いている歌詞を解釈してもあるむなしさを感じるわけです。<br />　ほとんど知的好奇心で読むだけであり、作詞者の他の歌詞までひろげて読む熱意は起きてきません。<br />　歌謡曲の歌詞を読んで、自分にプラスになることは何もないからです。<br /><br />　今の現代詩は言葉の意味性から辿れるものはほとんどありません。<br />　1965年に書かれた天沢退二郎とか鈴木志郎康の<a href="http://mediaxross.net/2010/04/maborosi02.html">こういう詩</a>ならば、よっしゃ解読するぞ、という闘志が湧く。<br /><br />　ページの中程にリンク線で青く表示されたアドビPDFの詩があります。<br />　「三枚の写真」の歌詞と、現代詩を比べれば、全然違うなということがお分かりいただけるかと思います。<br /><br />　天沢の詩に続けて吉本隆明の短い詩を付け足していますが、若干補足をしておきますと、<br />　　　　<span style="color: rgb(0, 180, 0);">読まれる恥ずかしさから<br />　　　　逃れるために</span><br /><br />　読まれるという意味は、意味性（＝散文的）の理解で読まれる、ということでしょうか。<br />　要するに、大衆意識レベルで読まれるということになる。<br /><br />　吉本の考えでは、自分の内面的世界が外部世界に接触するとき、ある軋みや違和を感じる。そのとき詩の言葉が生まれてくる。<br />　その軋みの意味を検討し、論理的に明確にしていくことが大事なのだと。<br /><br />　<span style="color: rgb(0, 128, 0);">この過程は庶民の生活意識から背離し、孤立していく過程である。だが、こうして論理化された内部から逆に外部世界へ相わたるとき、はじめて、外部世界を論理化する欲求が生じなければならぬ。<br /><br />　自分の庶民感からの背離感を、社会的な現実を変革する欲求として、社会秩序に向かって投げ返す過程である。<br />　正当な意味での変革（革命）の課題はこういう過程の他からは生まれないのだ。</span><br /><br />　ということです。<br /><br />　この60年代以降、現代詩はさらに表現が複雑多様になってきます。<br /><br /><br />　それで、もし石川ひとみさんがシンガー・ソングライターであったならば、歌詞だけではなく曲つくりや歌唱に到るまで、もっと熱心になれたかもしれないと思います。<br />　<br />]]>
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    <title>石川ひとみ　続・続　『三枚の写真』について</title>
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    <published>2010-07-28T16:23:29Z</published>
    <updated>2010-07-28T16:33:35Z</updated>

    <summary> 　前向きのコメントのおかげで、久しぶりに熱が入り、三枚の写真に対する理解も深まりました。　昨日、記事を書き終え、晩酌をしながらテレビをつけてみるとNHKで松本隆の番組をやっていました。　見ていて、どうも私は一つ誤解していた点があるようだと気づきました。...</summary>
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        <name>Y.K</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://mediaxross.com/">
        <![CDATA[ 　前向きのコメントのおかげで、久しぶりに熱が入り、三枚の写真に対する理解も深まりました。<br />　昨日、記事を書き終え、晩酌をしながらテレビをつけてみるとNHKで松本隆の番組をやっていました。<br />　見ていて、どうも私は一つ誤解していた点があるようだと気づきました。<br />]]>
        <![CDATA[　松本さんの「大衆」発言は、彼がロックの世界から歌謡曲に参入していく際に仲間たちから非難あるいは揶揄されたことに対する反論だったのか、と思いました。<br /><br />　それなら納得できる。<br />　かれの歌詞は三浦徳子さんと同様に、現代詩を研究して大衆意識の外縁部と外側のあたりを行き来する感じで表現がなされていると思います。<br />　ようするに、大衆意識の底辺から言葉を立ち上げるのではなく、若い人たちの感受性を既存の歌謡曲よりも高いレベルに引っ張り上げられるギリギリのところを設定しているかと。<br /><br />　<br /><br />　さて、この「三枚の写真」ですが、音数律から見ると七五調のうち、４音＋３音の７音で全体を構成しているところに、若干破調を意図しているかと思えますが、七五調の一つであることには変わりはありません。<br />　ただし、一般的な構成ではありませんから、新しい定型の試みをしているのかなという印象もあります。<br /><br />　三枚の写真は、前回述べたようにリフレインの部分が、日本的な叙情性ではなく外国映画のシーンのようなセリフです。<br />　それ以外、１番・２番は常套句が七七の音数律に乗って続きます。<br />　３番は短歌的な表現ではありませんが、俳句的な描写に近い。<br /><br />　それで、普通に叙情の内容を吟味してみると、北野ルミの曲とほとんど変わりがないでしょうね。<br />　ただし、北野ルミの曲の方がより演歌っぽい表現であり、「三枚の写真」のほうがまとわりつくような抒情性を排していてサラリとしている、という若干の違いはありますね。<br /><br />　石川ひとみさんの感性では３番のリフレインを、永遠の相の元に独自の解釈が成立するかと思いますが、大衆向けの歌詞の意味と正当な見方をするなら移ろいへの詠嘆であるといってよい。<br /><br />　言葉の表現が語っている範囲では、ごく普通に通念的であり、大衆の内側にとどまっている。<br />　表現の素材として写真を取り上げていることによる表現のバリエーションはあるわけですが、素材の新しさが内容の意味的な新しさをもたらすはずもない。<br /><br />　少なくともこの曲においては、革命的なことは何もないといってよい。<br /><br />　唯一、この歌詞で評価すべきところは２番の、年齢差がタイムラグを生み出し、二人の恋愛が冷めていく理由の表現として提示したことかなと思う。<br /><br />　３番に関しては、藤圭子の歌を引用したように、「愛ある別れ」の世界を踏み出るほどのものはないでしょうね。<br /><br /><br />　それで、以前の記事ですが、私はプロデュｰス戦略を意識して書いたかと思いますが、若干補足しておきます。<br /><br />　「三枚の写真」は三木聖子の歌詞として作られ、それほどヒットしなかったわけですね。<br />　「まちぶせ」の場合は、有線でリクエストがあり、結構根強い支持があった。<br /><br /><br />　「三枚の写真」は七音を連続する歌詞ですから曲が淡々となりやすく、<br />　あるいは逆に淡々とした抒情歌として七七調にしたのか、<br />　どちらにしても大ヒットするような曲とはならないけれども、<br />　しみじみとした佳曲にはなるだろう、という歌ですね。<br /><br />　でも、この曲を鶴の一声で決定した以上はこれで勝負しなければいけないわけで、前車の轍を踏まないためにはどうしたらいいのかが問題になるはずです。<br /><br />　何かを変えられるとしたら、若干のアレンジ変更か、あるいは歌い方にしかないわけですね。<br /><br />　この歌詞で唯一、意味がある２番の歌詞の歌い方を思いきって変えることでそれが可能ではないかな、<br />　...ということが以前の記事の内容だったと思います。<br /><br /><br />　この歌詞はある意味で都会的風俗をとらえているのだと思う。<br /><br />　16歳の女の子と18歳の男の子がつきあい始める、というのは多分に都会的な話だろうなと、<br />　...田舎ものの私は感じるね。<br /><br />　地方都市育ちの私の感覚では、<br />　中学生の女生徒が高校生の男の子とつきあい、海に行ったり、というのは想像しにくいところです。<br />　中学生ではなく、高校一年生なのかもしれませんけどね。<br /><br />　地方にもよるのでしょうが、だいたいが保守的ですから、そういうお付き合いそのものが成立しにくい。<br /><br />　せめて高校生くらいになって、男女交際が始まるわけですが、だいたいは同級生同士のつきあいになる。<br />　この年代で年の差カップルというのは、相当にとんでるカップルだと、<br />　田舎では不良仲間と見なされかねない、ものではないかな。<br /><br />　まあ、この歌詞はあくまでも表現上の私とあなたですけど、そこに都会的な雰囲気を感じるのかな、<br />　...と思います。<br /><br />　この年の差カップルを表現上に成立させることにより、<br />　高校生と大学生の世界の広がりの違いが、<br />　感性的なタイムラグとして新鮮に立ち現れてくる。<br /><br />　二人は、まさに青春まっただ中。<br /><br />　この２番の歌詞に、武衛的女性感覚を盛り込むと良くなるなと思うわけです。<br />　「いま　愛が引き潮...」の感覚ですね。（武衛尚子『海のようなやさしさで』）<br />　この感情は女性の永遠の部分ですから、いつの時代にも古びない。<br /><br />　一五一会版「右向け右」のような歌い方を、２番でやれば、<br />　「目をそらさずに　好きって言える」が、日本的感受性にも粗雑に感じず、<br />　深い幽玄をただよわせることができるのではないか...<br />　...そういうお話でした。<br /><br />　「さっさと　消えれば　いいでしょう」（『右右』）の、<br />　若さに任せた放言みたいなざらついた表現が、<br />　繊細でうるおい豊かな歌唱表現に生まれ変わったわけですから。<br /><br /><br />　石川ひとみさーん、<font style="font-size: 1.25em;"><font style="font-size: 1.25em;">一五一会版　『三枚の写真』</font>　</font>リクエストしまーす。<br /><br />　CDに２、３曲入っていて、あと自作詩の朗読でも大いに結構です。<br />　またはダウンロード版でもいいですね。定価は8000円くらいかな。<br /><br />　どうも最近私は散文的すぎて、いけない。<br /><br /><br />　それでと、比較対照する曲の選定ですか。<br />　今回、きっちりと一つ一つ理由を挙げて説明しておきましたので、比較する必要がなくなったかと思います。<br /><br />　昨日の松本さんの話や、前回のTVの話から、<br />　彼は歌手の印象と、自分の思い入れが成立しないと書けないタイプだなと分かりました。<br />　阿久悠もそうでした。<br />　横断的な流れで仕事をするのではなく、歌手個人の過去現在未来を見据え想像して書く。<br /><br />　ですので、太田裕美や岡田奈々の流れの延長で、といっても、<br />　多分松本さんはそういう流れでは書いていないはずだと思う。<br /><br />　太田裕美の過去現在未来、岡田奈々の過去現在未来、<br />　...そういうものを重視しているはずです。<br /><br />　まったくそれらの歌詞を見もしないで申しておりますので、かなりいい加減な憶測ですけれど。<br />　本質的なことを押さえておけば、私としてはOKかな。<br /><br /><br />　松本さんは、休筆中に自分に足りないものとして「古典」に取り組んでいた、という。<br />　確かに、それ以降の歌詞はぐっと良くなっています。<br /><br />　それ以前の歌詞は、歌謡曲の古くさくジメッとした常套句に対して、<br />　都会的で小じゃれた、気の利いた言葉を対置させてみせた、<br />　...という以上のものではありません。<br /><br />　古典の豊穣な言語表現に触れることによって、<br />　「目をそらさずに好きって言える」みたいな、粋ではないつまり無粋（で粗雑）な、<br />　むしろ女性ロック歌手にでもふさわしいような表現が無意識に出てくるようなことが、<br />　...少なくなったように思えます。<br /><br /><br />]]>
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    <title>石川ひとみ　続・「三枚の写真」について </title>
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    <published>2010-07-28T14:44:44Z</published>
    <updated>2010-07-28T15:05:20Z</updated>

    <summary>　吉田様、たいへん熱心なコメント、あらためて読ませていただきました。　あの記事を最初に書いたとき、別ブログで女性の自立について論じていましたので、こちらの記事もそれに引きつけた切り口の記事内容になっているなと思います。 ...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://mediaxross.com/">
        <![CDATA[　吉田様、たいへん熱心なコメント、あらためて読ませていただきました。<br />　あの記事を最初に書いたとき、別ブログで女性の自立について論じていましたので、こちらの記事もそれに引きつけた切り口の記事内容になっているなと思います。<br /><br /><br /> ]]>
        <![CDATA[　　松本隆さんについて厳しく書いているというのは、やはりあのNHKの番組を見ての反論という意味が半分はあったからですね。<br />　「大衆はいつでも正しく選択する」という発言は、何を意味しているかといいますと、大衆に読まれない高踏的な現代詩よりも、歌謡曲の歌詞のほうがまっとうな道を歩んでいる、あるいは価値がある、ということを言いたいのだと思います。<br /><br />　ご存じかと思いますが、現代詩の方では歌謡曲の歌詞を現代詩だとは見なしておりません。<br /><br />　現代詩は記紀歌謡以来の伝統的詩歌観の多くを否定して出発していますので、七五調の音数律と類型化した感情表現を踏襲している歌謡曲の歌詞とは明確に一線を画していると思います。<br /><br />　明治以来の詩人たちの営為はひとえに短歌や俳句などの高度に類型化され、多くの禁忌と規範で自由な表現を抑制されてきた伝統的詩歌観からの脱出であり、口語自由詩の確立にあったわけです。といって、定型律がもたらす不自由さの中での緊張した簡潔な表現の良さまで否定するものではありませんけど。<br /><br />　ちなみに『新古今和歌集』を開いてみれば、かの有名な仮名序があり、続いて春歌･夏歌･秋歌･冬歌と一般的な分類があり、さらに賀歌・哀傷歌・離別歌・旅歌・恋歌・雑歌･神祇歌・釋教歌と続きます。<br /><br />　このような分類があり、当時行われた歌合わせの行事の中から、いわゆる「秀句」という規範的な表現が確立していきます。<br />　和歌には、序詞があり、懸詞や縁語･類語などが系統的に整理されており、一つの歌あるいは一つの言葉が二重･三重の意味と表象性をおびて、響き合い、繊細･華麗・幽玄な表現を可能にしています。<br />　これは同音異義語が多い大和言葉の基本的な要素から（必然的に）生まれてきたものであり、当時の人々はそういうものをかなり常識的に使いこなしていました。<br /><br /><br />　日本人的感性の特質としてあげられるのが「移ろいゆく相というものを基盤にして、自然や人生･社会を見る」という心性ですね。<br />　端的に言えば無常観を基盤において、日本人の美意識が鋭く立ち上がっているのが伝統的詩歌の大きな特質です。<br /><br />　花の色はうつりにけるな、と詠う小野小町はそのような歌を色々詠っています。<br />　あはれなりわが身のはてやあさ緑つひには野べの霞と思へば　　（哀傷歌の部所収）<br /><br />　この歌について大岡信さんが、<br /><span style="color: rgb(0, 128, 0);">「野べの霞」は亡くなった人が火葬されるときの煙たなびくさまをいうと解されているが、この歌の与える感銘は、そんな合理的な解釈だけに限定されるものではない、</span><br />...として次のように述べています。<br /><br />　<span style="color: rgb(0, 128, 0);">万物が刻一刻生成し変化しつつある春という季節の自然は、生の喜びを感じさせつつ、同時に生の無常迅速を思わせるものに満ちていて（中略）、うららかであるべき霞が、あわれ、移ろいやすい人の命の象徴となる。</span><br /><br /><br />　これを通奏低音として、歌謡曲に縁のある恋歌を概観しますと、「色に出さない」という表現が多々見られます。<br /><br />　秋萩の枝もとををに置く露の今朝消えぬとも色に出でめや　（色には出さず）<br /><br />　玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶことの弱りもぞする　（秘めきれなくなる）<br /><br />　忘れてはうち嘆かる夕べかなわれのみ知りて過ぐる月日を　（思い秘めて月日過ぎる）<br /><br />　雨こそは頼まば漏らす頼まずは思わぬ人とみてをやみなむ　（あなたが頼みにしてくれるならなびきもするでしょう）<br /><br />　知るらめや木の葉降りしく谷水の岩間に漏らす下の心を　（木の葉＝言葉。心中の思いが木の葉をぬらして漏れる）<br /><br />　もの思ふといはぬばかりは忍ぶともいかがはすべき袖の雫を　（秘めても袖の雫に現れる気持ちはどうにもならない）<br /><br /><br />　このように、燃える想いを直情的には歌わずに、さりげなく歌い上げるところに日本人的な情趣表現の美を切り開いていったのが恋歌の世界です。<br />　和泉式部日記などを読むと、男女の恋のやりとりが実に繊細で幽玄でさえある豊かな言葉の世界を繰りひろげており、ほとんど評言の言葉を失うほどです。<br /><br />　伝統歌謡から言葉が分離して、詩として独立していった歴史的必然性を忘れて言葉を無意識のうちに使うならば、たちどころに記紀歌謡の大きな流れの中に飲み込まれる事になろうかと思う。<br /><br />　以上のことを前提に、「三枚の写真」の歌詞を再掲してみます。<br /><br /><br /><img alt="3mai.gif" src="http://mediaxross.com/gazou01/3mai.gif" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0pt 20px 20px 0pt;" width="250" height="718" />以前、北野ルミの歌「ギターのように愛されたい」と比較したのですが、<br /><span style="color: rgb(0, 191, 0);">　渚をかけながら、裸足で愛され<br />　落ち葉を踏みながら　ひとりに帰
る</span><br /><br />　夏に恋をして、秋に「飽き＝別れ」が来る、というのは歌謡曲の常套句ですね。<br /><br />　夏の恋...太陽がまぶしい、渚と砂浜、はしゃぐ若々しさ、ゆれる笑顔、ふれあいと恋の深まり<br /><br />　秋の恋...落ち葉＝別れのイメジ、肌寒さ＝こころの寒さ、川＝涙の縁語<br /><br />　この１番、２番は手垢にまみれた常套句の羅列だなと、私は強く感じてしまいますので、そこまで感性的に降りていけない。<br />　散文的にいってしまえば、ちょっと付き合いきれないという気持ちが先走ってしまう。<br /><br />　恋愛というのは人と人とのコミュニケーションでも、もっとも緊密で微妙な感情もボディランゲージレベルで通じ合うものだと思います。<br />　雰囲気だけで理解し合える以心伝心・惻隠の情・不立文字の二人の世界。<br /><br />　言葉では曰く言いがたいのが対幻想の世界ですから、昔からそれとなく表象性の高い表現で言い表し、二人だけがわかり合える言葉の世界があったのです。<br /><br />　それをあからさまに言ってしまえば、霊妙微細な感情が崩れてしまうと、伝統的な日本人の心情が育まれてきたはず。<br /><br />　そういう世界で「伏し目の美学」が粋とされてきたかと思います。映画で言えば小津 安二郎の世界とか、高倉健の伏し目とか、横顔で語れるのが粋なのだと。<br /><br />　ですから、<span style="color: rgb(0, 180, 0);">「目をそらさずに　好きって言える」</span>というのは、外国映画のようなシーンを日本語の世界に持ち込んだといってよいのでしょう。<br />　欧米人は個人主義が確立していて、他者とのコミュニケーションでは文言に明示することで契約を確立させるという、他者不信を前提に信頼関係を築くわけです。<br /><br />　男女の恋愛も、根底にあるのが契約という規範意識なのかと思います。<br /><br />　私は日本人ですので、もしお付き合いをしている相手から、<br /><span style="color: rgb(0, 180, 0);">「目をそらさずに　好きって言える」</span><br />　...と言われたとしたら、その感受性を粗雑に思い、それまで二人で育んできたと思っていた二人の世界が瓦解し、春霞たなびく風景を幻視することになると思う。<br /><br /><br />　<span style="color: rgb(255, 33, 102);">い つも「愛されている」という実感を持っていたい。</span>...ということは私も別ブログで力説しているはずですが、女性は切り花のように毎日水を与え続けていないと、すぐしおれてしまう、と。<br />　ただし、それは単なる言葉ではなく「愛されている」という実感であり、ボディランゲージや気遣い･心やりであり、目は口以上にものを言うものなのだ、と。<br /><br />　三浦徳子さんの歌詞「言葉じゃなくて　見つめて欲しい」...というのにグッと来る、とも書いております。<br /><br />　たとえば、高倉健が敵地に向かうとき、ふと振り向いてお竜さんの目を見据える、その一瞬に言葉をこえた気持ちの交わりがあるわけです。<br />　ここで無理に何かを言おうとするなら、どちらかが「なにも言うな（言わないで）」ということになるかと。<br /><br />　それが、粋の表現ですね。<br /><br />　あくまでも歌詞という言葉の表現の世界であり、日常性の言葉のレベルとは自ずと異なる高い表出性つまり言葉の美が求められるべきでしょう。<br /><br />　吉本隆明が、歌謡曲の歌詞は大衆の内側から表現され、現代詩の表現は大衆の外側から表現される、と言い表していますが、「目をそらさずに　好きって言える」という散文的なセリフは、まさに大衆の内側から発せられている言葉ですね。<br /><br /><br />　それと、言葉というのは、何度かくり返すうちにいともたやすく風化していく、ということも忘れてはいけないことです。<br />　愛している、という言葉を人生初めて使うときは誰でも多分、清水の舞台から飛び降りるという気持ちになるでしょう。<br />　しかし、それを何度か繰り返してゆくと、確実に空気が抜けていき、しっかりと目を合わせて「愛してるよ」とウソがつけるようになってしまうものです。あるいは、本気で言っているけれども、どこかでウソっぽいなとか、言葉が本質的に持っている事物との差異あるいは無の感覚...。<br /><br />　さらに悪いことには、恋愛には賞味期限があるというのは昔から実感されていたようで、三年目の浮気という常套句があります。恋愛感情が薄れて、友達感覚になり、そのうち空気みたいな存在になっていく。<br /><br />　これこそが、移ろいの姿ですから、人の心が移ろうことを詠嘆する表現は万葉以前から連めんとしてあり、日本的心性では織り込み済みのものです。<br />　なので、それ自体を詠唱することに今日的な感動はもとめられないだろうな、と思います。<br />　つまり３番の歌詞ですね。<br /><br />　これを伝統的な形式である「序･破・急」の流れとすれば、能のような表象性の表現であると見なすことはできるでしょう。<br /><br />　最初に挙げたように、この歌詞の言葉は意味的な喩が多用されており、像的な兪があまり見られないために、劇的空間の広がりが乏しいように思います。<br />　なぜ意味的な兪がこの歌詞に多いのかといえば、作者の頭にはたぶん「序･破・急」を時間的に構成するという、形式美の意識があったからだと考えられます。そういう知的な構築が優先されて、観念的な意味兪が出てくる。<br /><br /><br />　私は、16歳、17歳そして20歳。...高校時代と、大学生か短大生の時代。<br />　あなたは、18歳、19歳そして22歳。...高校から大学時代そして社会人になっていく年齢。<br /><br />　...これはある程度計算された年代だと思います。<br /><div><br />　高校、大学、社会人と、生活環境が変わるわけですが、二人の年齢差があるために、二人の意識変化にタイムラグを生み出します。<br /><br /><br />　高校時代の「私」には環境の変化はなく、「あなた」の方は高校から大学に入り新しい交友関係が拡大していきます。<br />　私自身の経験でも、都会の女の子たちと出会って演劇とか文芸映画とか新鮮な刺戟を受けて、郷里でお付き合いをしていた女の子の話題がつまらなくなる、色あせて感じるという感じで自然消滅していきました。<br /><br />　ですので、２番の詩は別に好きな人ができたということではなく、「あなた」の世界が広がることによって、「わたし」の存在が相対的に小さくなっていく、ということかと思う。<br /><br />　別な女性ができて、「あなた」の気持ちが離れていくなら、この時点で「別れ」を口にするのではないでしょうか。<br /><br /><br />　松本隆さんについてはほとんど知りませんが、そういう演歌的な世界を表現することはないかと思います。<br />　こころが離れつつあるけれども、べつに嫌いになったとかということでもない。そういう感情の中で、付き合っている。<br />　そのこころの温度差が、私には冷たいと感じるわけですね。<br /><br />　伝統的な心情からすれば、ここに歌が発生するわけです。古今･新古今に見られる移ろいゆくものへの詠唱です。<br /><br />　けれども松本隆さんは、外国映画のようなシーンをぶち込んだ。<br />　これはある意味で革命的なことで、短歌的叙情を排して、現代っ子的女の子の耐えることを美徳としない自己主張で置き換えてみたかったのか...。<br /><br /><br />　けれども、離れていく彼の心を引き止めることはできないし、無理に引き止めても、引き止められた男というのはえてしてわがままに振る舞い始めるようになっていく...。<br />　けっして、幸福な状態には戻り得ないし、腐れ縁の演歌的世界になっていくでしょう。極めて散文的世界です。<br /><br />　そういう別れがかいま見えている状態で、「目をそらさずに　好きって言える」というセリフは、女性の感情からすると「ダムが決壊した」状態ですので無理もないかと思います。<br /><br /><br />　しかし男としてはこんな場合、何も言えないはずです。説明しにくい。<br /><br />　二度繰り返されれば、「あなた」の気持ちは内省的になり、　「もう、以前のような熱い気持ちは薄れたけど、嫌いになったわけではない」と。自分の殻に閉じこもり、黙り込んでしまうでしょう。<br /><br />　さらに追い打ちを掛けたとしたら、別れを早める結果にしかならないかと思う。<br /><br /><br />　そして、吉田さんが指摘する３番の歌詞ですね。<br />　<span style="color: rgb(255, 33, 102);">「街」が出てくるのは、1番で海辺、2番で谷川という「旅先のイベント」を表現したのに対して、「退屈な日常」を示す意味ではないでしょうか。</span><br />　　<br />　日本語は直接的な意味の他に周辺概念も含んだ曖昧語ですから、いろいろな解釈が成立するものです。<br />　非日常と日常性の対比という解釈もなるほど、とうなづけます。<br />　けれども、すこし図式的な区分けのような気もいたします。<br /><br /><br />　意味的に追っていけば、３番の時点では二人してどこかに出かけていくということがすでに無くなっているということではないかと、私は思います。<br />　街の中で落ち合い、たとえば食事をしながら話をするとか、どこか話し合える場所におもむくことも、十分意味のあるイベントです。<br />　それがかつて通い慣れた行きつけのレストランであったとしても、別れを告げるとなれば非日常的な世界に一変するでしょう。<br /><br /><br />　松本隆さんはここでも演歌的表現を避けているのではないかと推察されます。<br /><br />　以前に取り上げておいたのですけれど、藤圭子の『別れの旅』の世界です。<br />　「さみしい手と手　重ねて　旅に出る　４年ありがとう　幸せでした　愛の終わりの旅に出る二人」<br /><br />　こういうべっとりまとわりつく情景を排除したいのでしょう。<br />　彼の世代であれば、この歌は十分に聴かされていたはずです。<br />　こういう演歌的表現に革命を起こしたいのだと。<br /><br /><br />　問題になるのは<span style="color: rgb(0, 180, 0);">「別れ間際に　振り向いた街　あのまなざしは　焼きついてたのに」</span>ですね。<br /><br />　私も初め、脳裏に焼きついているというイメージを持っていましたので、吉田さんのおっしゃるように「１番の世界を表現している」というもっとも妥当な感じの解釈もありました。けれども、確たる根拠を見いだせない。<br /><br />　それで、今回は私自身が表現者として歌詞の修辞的な面から見てみますと、３連で提示する言葉が１連目の言葉を参照するという距離感は、無理があるかなという感じを受けます。<br /><br />　歌詞の表現ですから、１番・２番と歌ってきて時間的に経過があるわけです。そして３番で、数分前に歌った内容を参照関係にするのは、修辞的にはやってはいけない部類の表現となってくるはずです。<br /><br />　ここは、三枚の写真を見ている場面ですから、素直に１枚目の写真に焼き付けられた「あなた」の、屈託のないまなざしと受け取るのが、いちばん自然ではないかと思います。<br /><br />　現代詩の場合は、基本的に読む詩ですから、前に出てきた語句を受けて成立することは問題ない。前に戻って読み返せばよいだけのことです。<br />　けれど、歌謡曲の場合は基本的に聴き流すものなので、言葉の係り結びはできるだけ接近しているべきかと思います。ほとんどの歌詞は意味の流れに沿って、言葉が並んでいるわけですから。<br /><br />&nbsp;「あのまなざし」は表現上は写真のまなざしを示し、メタファーとしては「１番の歌詞を受けている」と解釈すれば、申し分ないのかなと思います。<br /><br /><br /><br />　次に、<span style="color: rgb(255, 33, 102);">「振り向いたのは彼女ひとり、と考えています。」</span>との解釈ですけれど、どういうところからその解釈が出てくるのかが、私にはよく理解できないのです。<br /><br />　私の考えでは、次の<span style="color: rgb(0, 180, 0);">「あのまなざしは　焼きついてたのに」</span>を導き出すために、「振り向いた街」があるのではないかと考えられます。<br />　修辞的な問題だと。<br /><br />　別れ間際に彼は私から目をそらして、街を振り向く。見つめるわたしは、かれの横顔に二重写しのように、写真に残るあなたのまなざしを幻視しているのでしょう。映像的な二重写しの手法が採られている。<br />　彼が街を振り向くことによって、このフレーズが生きてくるのですね。<br /><br />　そして<span style="color: rgb(0, 180, 0);">「目をそらして　いいのよあなた」</span>もう責めないわ、と係り結びが完結する。<br /><br /><br />　けれども、私が街を振り向いてしまったなら、次の<span style="color: rgb(0, 180, 0);">「あのまなざしは　焼きついてたのに」</span>というフレーズが生きてこないし、さらには<span style="color: rgb(0, 180, 0);">「目をそらして　いいのよあなた」</span>という結びにつながらないように思います。<br /><br />　私は顔を背けて街を見る。<br />　あなたも<span style="color: rgb(0, 180, 0);">「目をそらして　いいのよあなた」</span>...という事になれば、寒々しい別れになるかと。<br /><br />　<br />　<span style="color: rgb(255, 33, 102);">彼氏に「本当は気持ちが冷めているのに、私の目を見て無理に" 好き"っていうようなことは、もうしなくていいのよ。そんなプレッシャーからこれで解放してあげるわね。」という、若干皮肉を含んだ諦念の言葉でしょう。 ...私はそう解釈していて「物語性がある」と感じていましたし、石川さんもほぼ同じように見ているらしいと知って</span><br /><br /><br />　...残念ながら、私などは無理に好きと言わなければならない恋愛腐れ縁は演歌的過ぎて、とても理解を超えます。<br />　結婚をしている間柄であれば、なんとか努力をしようとは考えますが、自由な恋愛関係において義務的にお付き合いしなければならないという不毛さには耐えられません。<br /><br />　<span style="color: rgb(255, 33, 102);">「</span><span style="color: rgb(255, 33, 102);">プレッシャーからこれで解放してあげるわね</span><span style="color: rgb(255, 33, 102);">」</span>という感覚は多分に女性性のこころの有り様としてあるのかもしれませんが、そのような倫理規範のようなものに基づく心理的支配関係というのは、自立した人間同士の関係であるとは言えません。<br />　女性の場合は、大なり小なり母親との葛藤（母親の娘支配）で育ちますので、そういう関係性を不自然には思わないような傾向があるかと思います。<br /><br />　けれども、男ならば、そういうものを疎ましいとかおぞましいとか感じるはずです。<br />　女性性にとっては自然に身につく関係性かもしれないが、男性性においては非自然な疎ましい関係性ですね。<br /><br /><br />　それで、男性性の意識で考えてみると、ここの<span style="color: rgb(0, 180, 0);">「目をそらして　いいのよあなた」</span>という表現は次に、<span style="color: rgb(0, 180, 0);">「目をそらさずに　好きって言える」</span>なんてもう言わないわ、という沈黙の言葉を引き連れているのかと考えられます。<br /><br />　私が受ける印象では、<b>それでも私は愛している</b>、という「わたし」の心情ではないかと感じる。<br /><br /><br />　石川ひとみさんが、この箇所で「胸がキュンとなる」のは、もっと別なところにあるのではないでしょうか。<br />　彼女の書いた歌詞などを読むと、たいへん際だった特質があり、「私は移ろいゆかない」という強い意志表示があるということですね。<br /><br />　「私は忘れない」という表現にたびたび出会います。<br />　移ろいの相において自然や人･社会を見ていく日本的心性の中で、石川ひとみという人はそれに抗していく姿勢を見せ続けています。心変わりしない、という意志それはある意味で自己規制を堅持するということになるでしょう。<br /><br />　そのような心性は、心的な意味での男性性の傾向ですので、あのかわいらしい石川ひとみさんが結構オトコっぽい精神構造をもっているのかな、と思えます。<br />（以前から言いたかったことを、言ってしまったのだ）<br /><br />　それを考慮に入れますと、若干皮肉を含んだ諦念というよりは、「それでも私は愛しているわ」という表現として、<br />　この<span style="color: rgb(0, 180, 0);">「目をそらして　いいのよあなた」</span>という一行に共感したのではないかと、思われます。<br /><br />　でも、三木聖子さんの場合ですと、ピッタリあうかもしれない、かな。<br />　といっても、三木聖子さんをほとんど知りませんので、失礼な言い方になるかもしれませんね。<br /><br />　（長くなりすぎましたので、次回に持ち越します）<br /><br /></div>]]>
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    <title>「ピピッと第六感」を選ばなかった意味</title>
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    <published>2010-07-28T14:38:57Z</published>
    <updated>2010-07-28T16:57:50Z</updated>

    <summary>　石川ひとみ歌手デビュー曲は三浦徳子の２つの曲からの選択がありましたが、選ばれなかったほうの曲『ピピッと第六感』について、少し触れておきましょう。...</summary>
    <author>
        <name>Y.K</name>
        
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        <![CDATA[　石川ひとみ歌手デビュー曲は三浦徳子の２つの曲からの選択がありましたが、選ばれなかったほうの曲<br />『ピピッと第六感』について、少し触れておきましょう。<br /><br />]]>
        <![CDATA[　　　女の子の第六感なんです　この恋は<br />　　　探してた太陽はあなたなの<br />　　　私はひまわり<br /><br />　この歌詞が「かわいらしすぎて、私には合わない」と、ご本人が言っているのですが、額面通りには受け取れないかと思います。<br /><br /><br /><a href="http://mediaxross.com/assets_c/2010/05/pipi-37.html" onclick="window.open('http://mediaxross.com/assets_c/2010/05/pipi-37.html','popup','width=752,height=2092,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://mediaxross.com/assets_c/2010/05/pipi-thumb-250x695-37.gif" alt="pipi.gif" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0pt 20px 20px 0pt;" width="250" height="695" /></a>　三浦徳子さんは若い娘の詩を書くのには表現意識が上昇しすぎていますから、無理にとってつけたようなフレーズを入れてしまう、という感じを受けます。<br /><div><br /><span style="color: rgb(0, 180, 0);">不器用なくせに変に馴れたふりよ</span><br /><br />　こういうセリフはもっと大人の女性の感覚ですね。<br />　こういう感覚がこの歌詞の基調になっています。<br /><br /><span style="color: rgb(0, 180, 0);">一週間立ってもいない二人　いいんです<br />女の子の第六感なんです　この恋は</span><br /><br />「<span style="color: rgb(0, 180, 0);">いいんです</span>」というのは、何がいいんですということなのだろうか?　恋？<br /><br />　どうも違うようです。<br /><br />　恋というのは「ある日突然に」というのがほとんどです。<br />　知り合って一週間もたたないうちに恋をするというのはごく普通であり、<span style="color: rgb(0, 180, 0);">女の子の第六感なんです</span>と、わざわざ言い訳めいたことを言う必要もないでしょう。<br /><br />　どうも、恋のことではないようだ、と。<br /><br /><span style="color: rgb(0, 180, 0);">夏に向かってゆく道がまぶしいわ<br />首すじの風にピピッと感じてしまう<br />そうよ　しっかりつかまれとあなたの言葉に</span><br /><br />　この辺から三浦さん得意のメタファーが仕掛けてきます。オートバイに二人乗りしているイメージが浮かんできますが、明瞭なものではありません。どこか曖昧なまま。<br />　歌詞という文字制限もあるのでしょうが、ウラの意味を持たせるために、バイクのイメージを特定しないようにしているかと...。<br /><br />　　<span style="color: rgb(0, 180, 0);">パラパラ...光の雨が降る<br />　　ヒラヒラ...花びらが舞い落ちる</span><br /><br />　この２行は意味深ですね。<br />　表の意味は文字通りなんてことのない情景描写ですけれど、ウラの意味は別のことを表現しているようだ。<br />　あからさまに言えば「二人の初体験」を、それとなく暗示している。<br />　<br />　だから、<span style="color: rgb(0, 180, 0);">一週間立ってもいない二人　いいんです</span><br />　...というセリフが、ほんとうの意味をもってくるはずです。<br /><br />　かなりきわどいことを、メタファーで覆い隠しているのですね。<br />　表の意味的な展開から行くと、<span style="color: rgb(0, 180, 0);">花びらが舞い落ちる</span>必然性も理由もないわけです。<br /><br />　けれども、コノテーション（言外の意味）の流れから見れば、<span style="color: rgb(0, 180, 0);">ヒラヒラ</span><span style="color: rgb(0, 180, 0);">ヒラヒラ</span><span style="color: rgb(0, 180, 0);">ヒラリ　花びらが舞い落ちる</span>にすべて歌詞が収斂していくわけです。<br /><br />　そのきわどさがあからさまにならないように、<br />　　　<span style="color: rgb(0, 180, 0);">探してた太陽はあなたなの<br />　　　私はひまわり</span><br />　と、無邪気なセリフでボカシのダメ押しをしている。<br />　しかし、このセリフはどう考えてもそれまでの歌詞の少し大人びた言葉からは浮いている、ということですね。<br /><br />　『右右』の歌詞でも、「なぜよなぜなの　本気だった気持ち　振り向いて」というのが、とってつけたようなセリフだと、指摘しました。あれと同じです。<br /><br />　どうも、この歌詞は三浦さんの意図というよりは、渡辺晋オナペット路線のような雰囲気を感じます。けれども、隠喩でうまくぼかしているので、ほとんどだれにも気づかれない。<br />　けれども、デノテーション（表の意味）がかなり意味不明なために、<br /><br />　　<span style="color: rgb(0, 180, 0);">パラパラ...光の雨が降る<br />　　ヒラヒラ...花びらが舞い落ちる</span><br /><br />...注意深く読めばウラの意味で書いていることの実態が見えてしまう、という点では岡田さん的なメタファーとさほど違いはないかと思います。歌謡曲ですから、わざとばれやすくするということかもしれませんが。<br /><br /><br />　また、その他の歌詞の意味的な展開でも、石川ひとみさんは男の子に一目惚れするタイプではなくじっくりと関係性を深めていく人のようですから、「白馬に乗った王子様を待っている」様なところはあまりないのでしょう。<br />　ですから、「<span style="color: rgb(0, 180, 0);">探してた太陽はあなたなの</span>」というのは、自分の感覚とは違うと違和感を抱いたかと推測されます。<br /><br />　それと、もう一つの違和感は文字通り「<span style="color: rgb(0, 180, 0);">私はひまわり</span>」という表現ですね。<br />　あまり人目につきたくない控えめな性格ですから、<span style="color: rgb(0, 180, 0);">ひまわり</span>はねぇ...、というところかもしれません。<br /><br />　曲についてひとこと言えば、全体に高音部が続いて、石川ひとみちゃんだから歌えるけど、普通の人には息継ぎ苦しい～となって、口ずさめるのは最初の２フレーズだけ、（目で読む）現代詩的歌詞なのでメロディーのノリもよくないということで、ヒットしないだろうなと誰でも直感するのではないでしょうか。<br /><br />　それなら、少しくらい言葉がきつくてもノリがよい「さっさと　消えれば　いいでしょう～」の方がいいかなァ、と。<br /><br /><br /><br />　【コメント】<br /><br /><p>小林さんはじめまして。<br />
「松本隆の歌詞」で検索して参りまし。</p>

<p>私はかつて「海より青いひとみ」という、石川ひとみさんの話題を扱うサイトを作っていました。<br />
おかげさまで、このサイトを通じて多くの石川さんファンの方と知り合うことができ、貴重な資料を融通していただく機会を得ることや、石川さんの私あて直筆サイン入り写真をいただくこともできました。</p>

<p>CD-BOX（最初のほう）が制作された時には、担当のSさんからコンタクトをいただき、ブックレットに載せる年表編纂のお手伝いをしまし。<br />
（ブックレットの最終ページに、私の名前も出ています。）</p>

<p>さらにその際Sさんに頼まれて、私が20年近く大切に聴いていた「くるみ割り人形/わたしはひ・と・み」のカセットテープを貸したことにより、同テープ収録のカバー曲すべてのBOX収載が実現しました。</p>

<p>私のサイト活動がわずかでも、石川ひとみワークスを後世に伝えるためのお役に立てたようで、懐かしくも嬉しく思い出されます。</p>

<p>しかし...。<br />
小林さんのブログを見て、その膨大な分量とハイレベルな楽曲評論、決してうまくいったとは言いがたいプロデュースの「失敗の検証」にただただ驚嘆するとともに、かつて私がインターネットにたれ流していた文章を、心の底から恥じた次第です。</p>

<p>「海より青いひとみ」は、「石川ひとみさんは『まちぶせ』だけの人では決してなく、これほど素敵な歌をたくさん取り上げていましたよ！」<br />
...と訴えることをコンセプトとしたサイトでしたが、小林さんの文章の前では、ただの浅学非才な、ひとりよがりの落書きにすぎません。</p>

<p>サイトは諸事情があって数年前に閉じましたが、閉鎖しよかった、と改めて感じました。小林さんのような方がファンにおいでなのにもかかわらず長年無鉄砲なことをしていた、知らないというのは恐ろしいことと、汗顔の至りです。</p>

<p>さて、今回アカウントを取ってまでコメント差し上げようと思い立ったのは、石川さんの話題ではなく、松本隆さんについて取り上げた記事を読んで、思うところをお伝えしたいからです。</p>

<p>本来ならばその記事にコメントをつけるべきところではありますが、サーバーを移転されたようですので、確実にご覧いただけるであろうところにコメントさせていただきました。失礼ご容赦ください。</p>

<p>さらに失礼を重ねてしまうようで恐縮ですが、小林さんは松本さんと同年代の方でしょうか。記事の中に、そう思わせるような記述がいくつか見受けられました。</p>

<p>私のように「北山修と松本隆の歌詞で育った」ような年代の者は、松本さんの作品というだけで「きゃー、すごい、スゴイ！」とまず熱くなってしまい、評論しようとしても結局は拙いファンレターの域を出ないものになってしまいますが、小林さんは松本作品に対して冷静な目線を崩さずに評していらっしゃるので、その時点で既に我が非力ぶりを思い知らされます。</p>

<p>古典から現代詩に至るまで幅広い分野の文章表現に精通している小林さんの手にかかると「風街詩人」もかたなし、なのですね。<br />
「歌謡曲の歌詞で、曲を捨象して、言葉の表現だけの価値で自立できるものはほとんどない。曲がなければまともな鑑賞に堪えるほどの表現ではない。」という指摘には、私の感性の質の低さをズバリと射抜かれた思いです。</p>

<p>松本さんは、ヒット曲量産時代は裏方に徹していましたが、インターネットが普及しはじめた頃から積極的にメディアに出て、自分の意見を述べるようになりました。<br />
おおむね首肯できます、中には首をひねらざるを得ない発言もあります。</p>

<p>その最たるものは、「大衆はそれほど愚かではない。長い目で見ると、いつの時代も優れた本物の作品を選択し、歌い継いでいく。」という持論です。</p>

<p>昨年教育テレビで放送された「佐野元春のソングライターズ」でもそう言っていました。私は、この考え方は少し大衆を買いかぶりすぎているのではないだろうか?と、常々疑問視しています。</p>

<p>松本さんは、小林さんのおっしゃるところの「マーケティング」、すなわち「ファン目線、つまりファンの気持ちや考えに立脚し、ファンが何を望み、求め、欲しているかを的確に把握した上、ファンと共に育っていくという形をとって、互いを高めあうような意識の向上を図ること」（引用です）を、有名作詞家の中では最も意識して作品を書いてきました。<br />
その成果が現れたのが太裕美さんであり、松田聖子さんであることは言うまでもありません。<br />
（にもかかわらず、ご本人はマーケティングリサーチと混同していることは、小林さんのご指摘通りですね。）</p>

<p>さらに松本さんは、歌詞作りという職業を通じて、上層伝播と低層伝播の二兎をあえて追いたい、という志を持った人と思われます。<br />
しかし彼の視野にある「大衆」とは、小林さんの図にある三角形の「アクティブ」以上、多く見積もっても「リピーター」の上位層ぐらいであるような気がしてなりません。</p>

<p>流行歌謡をある程度自覚的に聴き続けている人以外には、松本さんの志はおそらく届かないでしょう。端的にいえば、私（石川さんの3年下です）と同年代やもっと若い人でも、歌といえば演歌しか知らない、田舎の青年団で活動しているような人は、少々文芸的な詞のある曲でも、中身がカラッポに近いような曲でも、「あの娘、ちょっと可愛いっぺ。あんな嫁さん欲しいべ。」で片付けてしまいます。<br />
すなわち三角形の底辺にいる人にとっては、歌詞は全て等価なのです。この層にいくら低層伝播をやろうとしても、砂漠に水をまくようなものです。</p>

<p>また、一時の熱狂（いわゆる「ブーム」）に乗り、大衆が時にとんでもないものを支持したり、後から見れば愚の骨頂としか思えない判断をしてしまうことは、流行歌謡の世界にとどまりません。<br />
今の松本さんは作詞の世界で大成功を収めて、ブルジョワジーの権化のような暮らしができる身分ですし、周囲には「松本さんの書くものならば何でもついていく！」という熱心なファン（三角形頂点の「ロイヤル」層）しかいないので、大衆とはそういった人たちのことと錯覚しているような節がうかがえます。</p>

<p>それだけに「松本隆の歌詞」の記事で小林さんがご指摘なされていたことには、わが意を得たり、の思いを強くしました。<br />
小林さんがご指摘なされていた「メロディーと組み合わさり、歌手によって歌われることにより、まともな理解を得られずに売れてしまう"言葉の地位低下"」は、低層伝播さえもうまく伝わらない層の人たちが、諧謔味のかけらもないギャグにしたり、似ても似つかぬモノマネなどで貶めていくうちに、さらにひどくなっていく恐れさえあります。</p>

<p>松本さんのような立場にいると、そのようなことが自ずと見えなくなってしまうのでしょうね。</p>

<p>お話は変わりますが、小林さんの記事にはカセットテープからCDBOXに収録されたカバー曲の評もあるので、嬉しくなります。<br />
私と一緒にブックレット編纂のお手伝いをした人たちの間では「アレンジが安っぽい！」と、バッサリ切り捨てられていましたが。</p>

<p>私は「ポケットいっぱいの『アグネスの秘密』（♪あなた草の上、ぐっすり...のフレーズの頭の字を取ると"アグネス"になる）を石川さんにやらせても、意味がないでしょう！」と、ひとりツッコミしていました。</p>

<p>「木綿のハンカチーフ」でさえ若さにまかせて、あれだけあっけらかんと元気よく歌うのですから、「ポケットいっぱいの秘密」は推して知るべし、ですね。</p>

<p>このカバー集では「想い出のセレナーデ」が唯一元気の良さにブレーキをかけて、歌詞をきちんと自分のものとしてこなそうと努力した節がうかがえる歌い方をしていますが、私はこの詞を誤読していました。<br />
坂を登って見えてくるあなたの家のあの部屋に、もう今は知らない人が住んでいる、というのは、彼氏が物件から退居して、自分たちの恋愛模様を知らない第三者が引っ越してきた、とイメージしていましたが（たとえ知らない人が住んでいても、彼女にとってはいつまでも｢あなたの家」という認識になります）、そうではなくて、彼氏は変わらずその家にいて、自分の知らない人＝多分別の女性＝が暮らしている、という状況なのですね。これは参りました。</p>

<p>...といった具合に小林さんのブログはたいへんためになりますが、「三枚の写真」の話に関してだけは「あれっ?」と思わされました。</p>

<p>長くなりましたので、これについてはまた稿を改めてコメントしたく存じます。よろしくお願いします。</p><br />　【コメント】<br /><br /> <p>続けて失礼します。</p>

<p>"「三枚の写真」なぜか哀しくなる不安感"の記事を拝読しました。</p>

<p>「『三枚の写真』は松本隆らしく物語性が豊かだ、と言っている方がいますけれど、どのような物語なのですかと、私は訊いてみたいね。ネームバリューだけで、知ったようなことを言っているとしか思えん。」（引用です）</p>

<p>...こりゃまた失礼いたしました、私もかつて自分のサイトで同じようなことを書いた覚えがあります。しかし、CDBOXブックレットの「三枚の写真」のページを今一度ご覧になってください。他ならぬ石川さんご自身が、「歌詞がドラマ仕立てというか、ストーリーがあるので、自分が17の頃を思い出したりしながら聴けるのがいいですよね。」とコメントしています。小林さん、そこまでおっしゃるのならば、石川さんご本人にも同じ質問を投げかけてみますか?</p>

<p><br />
小林さんの論は、ソングライターに対して辛口であることが特徴とお見受けしますが、松本さんに関してはとりわけ辛口すぎるような感想を持ちました。「三枚の写真」は、松本隆の代表作とされている作品ほどのクオリティはありませんが、アベレージレベルには十分達していると思います。</p>

<p>この詞のキーポイントが2番の「目をそらさずに、好きって言える?」であることについては、私も同意見です。表現は現在形ですが、この女性は長い恋愛が終わった後に、三枚の写真を取り出して、「ああそういえば、あの時あんなことを言ったわね。」と感慨にふけっていて、その時点から過去を振り返る歌だと思えます。</p>

<p>1番の「目をそらさずに...」は、おそらく最初の本格的なデートの時。もともと相手の目を見ないで話す癖があるのか、それとも彼女の水着姿にクラクラしたのかは知りませんが、目をあわせようとしない彼氏に、「ちゃんと好きって言ってよ！」とせがむ、明るいセリフでしょう。</p>

<p>これに対して2番の「目をそらさずに...」は、同じ言葉でも大きく意味が異なります。この時点で交際開始から1年と少し、彼氏が自分に何となく飽きてきたような態度を取るようになってきた。もしかしたら、他に好きな女性ができたのかもしれないと、それこそ「ハート通信」のヒロインみたいな第六感が働いて、彼氏の自分への愛情を再確認せずにはいられなくなったのでしょう。それゆえに、もう一度自分の目をしっかり見て「好き」と言ってほしい、あるいは既に誰か他の女性が彼氏の前に現れているのならば、「それでも私の目を見て、好きって言うことができるの?」という"挑発"のニュアンスも含まれるかもしれません。</p>

<p>「だーれだ！」の目隠しをした彼氏の腕に冷たいねと答えて涙を落とした、というエピソードは、彼氏の腕が谷川の水で冷やされて、物理的に冷たいということに加えて、「このごろあなた、何だか冷たくなってきたんじゃないかしら?」という意味が含まれていると思われます。だからこそ、他愛ないじゃれ合いにさえも「涙落とした」のでしょう。その彼女の気持ちをダメ押しのように象徴する言葉が2番最後の「ふたりの間の落葉」です。</p>

<p>再び引用です。<br />
「「目をそらさずに（本気モードで）好き！と言う」のは、一回だけで勘弁して欲しいなと思ったりしちゃうけどね。あとは普段の態度で分かるはず、というのがごく普通の男の気持ち、、だよね。」</p>

<p>ええ、それでもなお、せめて節目節目には、目をはっきり見て「好き」と言ってほしい！というのが女なのです。具体的な話ももちろん必要、でもそれだけじゃイヤ、その上にいつも「愛されている」という実感を持っていたい。これが女の気持ちです。なのでこれを理由に「男の観念的な詞だということですね。」と断定してしまうのは、少し松本さんがかわいそうに思えました。</p>

<p>小林さんは、3番は単に形式を整えるだけの意味しか持たないという見解ですが...。</p>

<p>「街」が出てくるのは、1番で海辺、2番で谷川という「旅先のイベント」を表現したのに対して、「退屈な日常」を示す意味ではないでしょうか。</p>

<p>別れを決めた二人は当然街の中にいて、彼女が振り向いたらビルなり商店街なり、いつも見慣れた風景が目に入った、ということと解釈していました。</p>

<p>振り向いたのは彼女ひとり、と考えています。朝や夜ではなく、薄曇りの春の日の、午後と夕方のあいだぐらいの、人影の少ない、極めてぬるい空気の街をイメージしていました。</p>

<p>そして「あのまなざし」とは、その時点での彼氏のまなざしではなく、多分1番のエピソードにある、海辺で初めて「好き」と言ってくれた時のまなざし、ではないでしょうか。</p>

<p>今でこそほとんどデジカメになってしまいましたが、当時は言うまでもなく、写真とはフィルムなり印画紙なりに「焼き付ける」ものでした。20歳の春に撮った三枚目の写真には、彼氏の姿はない。でも、それを眺める自分の心の印画紙には、最初に告白してくれた時のあのまなざしが、確かに焼きついている。</p>

<p>石川さんは、3番の「目をそらしてもいいのよあなた」のところに胸がキュンとなる、と述べていますが、これは彼氏に「本当は気持ちが冷めているのに、私の目を見て無理に"好き"っていうようなことは、もうしなくていいのよ。そんなプレッシャーからこれで解放してあげるわね。」という、若干皮肉を含んだ諦念の言葉でしょう。</p>

<p>...私はそう解釈していて「物語性がある」と感じていましたし、石川さんもほぼ同じように見ているらしいと知って単純に喜んいたのですが、小林さんの他の論があまりにもハイレベルなので、だんだん自信がなくなって参りました。</p>

<p>次に、この論で松田聖子さんを引き合いに出すのはあまり適当ではないと思えます。<br />
「三枚の写真」が書かれた時点では、彼女はまだデビューしていません。ここで比較の対象になるのは、当然太田裕美さんになるはずです。</p>

<p>この頃の松本さんは、<br />
恋の始まり→楽しいけれど少し不安→切ない別れ、</p>

<p>...の「白い色は恋人の色」タイプの詞をたくさん書いていて、太田さんや岡田奈々さんに提供していました。</p>

<p>「三枚の写真」もその流れの線上で、という注文を受けて書かれたものではないでしょうか。<br />
（最近の松本さんは、「若い頃は歌謡曲は大嫌いだった。あまりにも詞がくだらないので、それならば自分で書いてやろうと思った。」とよく述懐していますが、彼の歌謡詞は北山修さん的抒情のトレースからスタートしたことは間違いないものと思われます。<br />
近年の松本さんは歌謡詞を卒業したと称して上層伝播に凝っていますし、｢自分の出自はあくまでも日本語ロックであって、はっぴいえんどが全ての始まりで、それから単身歌謡界に乗り込んで"革命"を起こした。」</p>

<p>...という自分史にしたい彼にとって、この経歴はまさに「不都合な真実」なのでしょう。）</p>

<p><br />
この詞が「観念的」という批判を受けるとすれば、それは男性が作り出した「理想の女心」だから、ということではないでしょう。</p>

<p>17歳の秋に早くも別れ（浮気?）を予感していながら、最終的に<br />
別れを決断したのは20歳の春というのは、いくら長すぎた春といっても、間延びしすぎですね。<br />
2年半もの間、この女性は何をしていたのでしょう。3番が「18の頃、あなたは20歳」でけりをつける詞ならばそう不自然な印象にはなりませんが。<br />
おそらく三木聖子さんがレコーディング当時、20歳の誕生日を迎えたばかりだったということがスタッフの念頭にあって、オチをつけるところでは彼女の年齢を「20歳」に設定してほしい、という注文がなされた可能性もあると見ています。</p>

<p>それならば1番を「17の頃、あなたは19...」でスタートさせる手もあったはずですが、さすがの松本さんもそこまでは気がつかなかったのでしょう。</p>

<p>それに2番には「写真を撮った」ことを匂わせるフレーズは一切ありませんし、3番で自分ひとりだけの写真を撮ることになった動機がよくわかりません。</p>

<p>成人式、は既に季節はずれですし...短大の卒業式あたりでしょうか。そもそも1番のエピソードの時に一枚しか写真を撮らなかったというのも首を傾げます。<br />
この時は彼氏も気合いが入っていたでしょうから、24枚撮りのフィルム1本まるごと使って彼女やふたりの写真をたくさん撮り、すぐに現像してくれたと考えるほうが自然ですよね。</p>

<p>それに、これだけ長くつきあっていれば、「三枚の写真」以外にも恋愛の思い出になるものが山ほどたまっているはずです。そのような粗もありますが、当時の松本さんの力量が「隠し味」的にきちんと入っていますし、小林さんが見るほどには悪くない、というのが私の評価です。</p>

<p><br />
小林さんの「シングル曲ベストオーダー」にもコメントさしあげてよろしいですか。これはとても面白く拝見しました。</p>

<p>「にわか雨」を出すのならば「まちぶせ」の前に、という発想には瞠目しました。小林さんのプロデュース案は、現実の歴史よりははるかに気が利いていますが、岩崎宏美さん、伊藤咲子さんあたりの売り出しメソドロジーに似ているかな、という印象を持ちました。</p>

<p>1978年時点ではそのような売り出し方は既に古臭くなっていて、ミュージックシーンに到底ついていけそうにない、という空気があったのかもしれませんね。</p>

<p>ピンクレディーが圧倒的な人気を誇る一方で、現在「大御所」級の存在感を見せている、いわゆるニューミュージック・ロック界のスターたちの人気が定着し、音楽ファンの好みの二極化が目立った時期に、岩崎さん風の歌謡曲歌手を新たに育てることは容易ではなかったでしょう。</p>

<p>初期の石川さんには「哀しい妖精」のような曲が合うのではないか、と述べていた人は他にもいますが、南沙織さんの曲で言うならば、カバー曲をあっけらかんと歌っていた「わたしはひ・と・み」カセットテープの時代に「ともだち」あたりを持ってくれば面白いのではないかと思います。</p>

<p>有名な「17才」は、後年カバーした人も出ましたが、この時点ではまだ南さんのイメージが強すぎたことでしょうし、「純潔」や「早春の港」は、当時の石川さんにはいろいろな意味でまだ早すぎたでしょうから。</p>

<p></p>

<p>いきなり現れて、長々と失礼しました。<br />
私にとって、石川さんの歌に親しんだ頃は既に「遠い思い出」になりかけています。</p>

<p>サイト運営当時にたくさん集めた資料や、全て揃えていたシングルレコードやLPも、昨年半分ぐらい手放しました。</p>

<p>今、石川さんに望むことは、元気で歌い続けてくれること、それだけです。小林さんのように楽曲や歌手としての歩みを精緻に考察するファンがいらっしゃることで、石川さんも歌手になってよかった、好きな歌を存分に歌えて幸せだったと、多分に救われるものと思えます。同時に「Feeling石川ひとみ」があることで、私も心置きなくファン活動を引退することができそうです。</p>

<p>ありがとうございました。</p><br /><br /></div>]]>
    </content>
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    <title>Ishikawa Hitomi 「Do You Love Me ?」</title>
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    <published>2010-07-28T14:34:45Z</published>
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    <summary> 　Do You Love Me ?作詞／作曲：小室みつ子　／編曲：松任谷正隆 ...</summary>
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        <name>Y.K</name>
        
    </author>
    
        <category term="03全曲インプレッション" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="doyouloveme" label="Do You Love Me ?" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://mediaxross.com/">
        <![CDATA[ <div align="center">　Do You Love Me ?<br /><br />作詞／作曲：小室みつ子　／編曲：松任谷正隆<br /> </div>]]>
        <![CDATA[　小室みつ子さんの歌詞はどれもかわいらしいです。<br />　若い頃の詩ですから、それにふさわしいものを対象にすると、彼女の良さが発揮されますね。<br /><br /><br /><img alt="doyuo_loveme.gif" src="http://mediaxross.com/gazou01/doyuo_loveme.gif" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0pt 20px 20px 0pt;" width="250" height="665" />この歌は、なかなか味わいがありますね。<br />ちょっと見ほどには他愛のないものではなくて、みつ子さん、すこしばかりひねりを加えています。<br /><br />それを受けて松任谷正隆がしゃれたエンディングにしています。<br /><br />話体の歌詞は軽味を表現するのに適していますので、みつ子的ライトヴァースの恋愛詩になっていて、<br />「もうすぐ私きっと　あなたを振り向かせる」<br />のとは対極的な世界になっています。<br /><br /><span style="color: rgb(0, 180, 0);">このままでも<br />あなたはいいのネ</span><br /><br />このセリフは少しいじわるっぽくほほ笑んでいるかと思う<br />（ヘッダー画像1982の感じですね）<br />なぜかというと、<br /><br /><span style="color: rgb(0, 180, 0);">手の内見せれば　恋は負けネ</span><br /><br />手の内を見せてしまったのは「あなた」なのですよね。<br /><br />レコードを貸してあげる、という逢うための口実つくりを、恋活詩をたくさん書いているみつ子さんの感覚では、<br />「常套的」な手段だとして、<br />（わたし的に）は、かるーく見抜いている、という設定です。<br /><br /><div align="left">だから、わざとレコードを返さずに、手の内を見られたあなたの負けよー　(*^_^*)　と、ほほ笑んでいるのです。<br /></div><div><br />私が手の内を見せないと画策しているのではなく、他愛なく手の内を見せてくれた「あなた」を、よしよしと頭をなでてあげたいくらいだ、と。<br />　嫉妬して本気で怒ってるのね、とか。<br /><br />でも、告られ一歩手前の私だって胸の内は「早く告白して！」と熱いのーっと。<br /><br />それで余裕かまして　<span style="color: rgb(0, 180, 0);">Do You Love Me ?　</span>などと、冷やかし気味にハミング気分でいたら...最後に...<br /><br />いきなり抱きしめられキスされて（あなたの）告白の言葉はなく<br />私は Yes と言おうと思っていたのに何も言えませんでした<br /><br />...とさ。想定の範囲外でしたね。<br /><br />　おねーさま気取りの私に、Do You Love Me ? とリフレインされて、「オレは男だァー」と。<br />　いきなり終わるエンディングはそういう意味でしょう。<br /><br />　この歌詞は現実的な描写ではなく、歌詞という表現の中で、リフレインがあったり、本来胸の内にある内語が、実際のセリフのように書かれています。<br />　Do You Love Me ? と、それに対応するセリフは、私の心理的時間の推移を表しています。<br /><br />　たとえば、「探り合いに　ピリオド打つのよ」というのは、私がではなく、早くピリオドを打ってね、という再三の内面的呼びかけですね。この形式に新しい試みがありますが、作詞家の世界の話になってしまいます。<br /><br />　でも、ですね、レコードのひとみちゃん、少しもいたずらっぽく歌ってないようだねぇ。<br />　みつ子さんの方が表現者として少しだけ屈折しているのでしょう。<br /><br />　歌手石川ひとみ、す、すなおですからー。<br />　というより、ディレクターが分かってないのよね。<br /><br />　でも、高音のよく抜けること。<br />　幼い声になるところがいいのだな。<br /><br /><br />　私も昔、逆に女の子からレコードを借りたことがあります。<br />　でも、私は、それと同じレコードをお店に注文して、そちらの新品を一度開封したりしてから、素知らぬ顔で彼女に返すということをやりました。<br /><br />　彼女が聴き古したレコードを宝物にして、帰郷しようと思ったからですね。ところが、その日の夜にはこちらの手の内がばれてしまいました。<br />　素っ気ないそぶりで返したので、彼女はレコードの中に何か手紙でも入っているかとチェックをしたようで、まっさらなレコード盤に気づかれてしまった。<br /><br />　こうなると、五分五分の膠着状態かな。<br />　そこから物語が始まるわけですけれど、歌謡曲では収まらなくなる世界ですね。<br /><br /><br />　【コメント】<br /><br />            <p>こんにちは、小林さん。</p>

<p>驚きました、早速に「インプレッション」が出来上がっていました。<br />
ありがとうございます。</p>

<p>私は詩の意味を取り違えていたようです、手の内見せたのは「あなた」なのですね、それで少し大人びた言葉遣いになって分けなのですね、そうなのか。読解弱いようです。</p>

<p>でも、言い訳ですが、石川ひとみさんが歌うと全て悪いのは私（ひとみさん）で歌詞の中に出てくる相手は全く悪くないニュアンスで聞こえるのです。</p>

<p>そこが素敵なのですが。</p>

<p><br />
「返したレコードの中に手紙を入れる」そうか、その手があったのですね。<br />
うーん30年前も今も気がつきませんでした。</p>

<p>「Do You Love Me ?」インプレッション、ありがとうございました。<br />
これからも少しずつでも「全ての曲」を取り上げて頂けると嬉しいです。</p><p><br /></p><p></p><p>追伸です。</p>

<p>おかげ様で、この曲で一番不思議に思っていた、「突然のエンディング」理由が分かりました。</p>

<p>その瞬間「抱きしめられた」場面を表現しているのですか。</p>

<p>長年の疑問が解消しました。</p>

<p>プロの技術って素晴らしいものですね、でも小林さんの解説がなければ、そのプロの技術を理解出来ませんでした。<br />
</p><br />　【返信】<br /><br /> <p>　松任谷さん、楽しんでいますよね。</p>

<p>　じつは、この曲がこんなふうに終わっていることに、これまで気づいていませんでした。<br />
　他の曲と通してＢＧＭのように聴いていますと、他のことに気をとられて、気付かなかったのかもしれません。</p>

<p>　一曲だけ取り上げてみると、イメージが湧きますね。<br />
　きちんと聴いてみると、どれもスタッフそれぞれの想いが込められていることが了解されます。<br />
　一つ一つ、みんな命をもっていることに気づかされました。</p><br />

<br /></div>]]>
    </content>
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    <title>池井昌樹さんの詩でも</title>
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    <published>2010-07-28T14:27:04Z</published>
    <updated>2010-07-28T16:47:42Z</updated>

    <summary><![CDATA[&nbsp;池井昌樹さんの詩を読んで、石川ひとみさんにぴったりな詩を発見しました。　私はこの系統の詩はとても書けないので、画像にしてアップしたいと思います。 ...]]></summary>
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        <name>Y.K</name>
        
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        <category term="00info 雑記" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="池井昌樹" label="池井昌樹" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://mediaxross.com/">
        <![CDATA[&nbsp;池井昌樹さんの詩を読んで、石川ひとみさんにぴったりな詩を発見しました。<br />　私はこの系統の詩はとても書けないので、画像にしてアップしたいと思います。 ]]>
        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="ikei01.gif" src="http://mediaxross.com/gazou01/ikei01.gif" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0pt auto 20px;" width="455" height="1343" /></span>&nbsp;<br /><br />　親になってみるとこのような気持ちが深く理解されるようになるのでしょう。<br />　この詩を読んで、すぐに石川ひとみさんを思い浮かべました。<br /><br />　そういうことですね。<br /><br /><br />　【コメント】<br /><br /><br /><p>この詩を読んでいて、少し涙ぐみました。</p>

<p>私もまた、やさしさだけを手渡されて、苦しみながら歩いていく人生になったからでしょう。</p>

<p>しかし、普段現代詩の本など読まない私にとって、この記事がなければ、この作品を知る機会はありませんでした。</p>

<p>この作品にも当然著作権があると思われます。<br />
著作者の権利を守るという精神は大切ですが、表現されるものは人の目にふれてなんぼであり、守って守り抜いたあげく、誰も知っている人がいなくなってしまった、では本末転倒ですね。</p>

<p>Feeling石川ひとみの運営にもいろいろご苦労されておいでのようですが、石川ひとみというシンガーを知らない人に向けて書くには、どうしてもある程度の引用は避けられません。</p>

<p>このブログが少しでも長く続けられるよう願うものです。</p><p><br /></p><p>　【返信】</p><p><br /> </p><p>　たいへん含蓄のある、そして石川ひとみさんに対する愛情溢れるコメントを頂きまして、ありがとうございます。<br /><br />
　最近は、棘のあるバラの枝ばっかりみたいなブログになってしまい、吉田さんのコメントできれいな花が咲いたような気がいたします。<br /></p>

<p>　残念なことに、あなたのブログを知らなかったものですから、もう少し早く出会えていればと思います。<br /><br />
　改めて、じっくり考えさせていただければと存じます。<br /></p>

<p>　松本隆さんについては、『冬のリビエラ』で少し取り上げております。（該当ブログは閉鎖してます）<br />
　他のページでやっていることの影響がこのページに反映されてしまうということがあり、そちらの論旨を前提にこのページを書いているという問題があります。</p>

<p>　そういう前提＝先入見みたいなもので、いってみれば、偏見なのだろうなと思います。松本隆さんは、石川ひとみさんの歌詞を直接書いてはいないので、私の方は簡単に書き流しているところはあるとおもいます。</p><p><br /></p><p>　【コメント】</p><br /><p>
 </p><p>お忙しいところ早速のお返事ありがとうございました。<br />
とても嬉しく存じます。<br />
投稿したコメントを読み返してみたら、なぜか脱字していると<br />
ころが結構あるみたいで、すみません。文意は通じるとは思い<br />
ますが、もし不明なところがありましたらお知らせください。</p>

<p>私の作っていた「海より青いひとみ」HPはご存じなかったの<br />
ですか...それも失礼しました。<br />
お時間の取れる折にでも、改めてお話を聞かせていただけれ<br />
ばと存じます。改めてよろしくお願いします。</p>
<br />
<br /><br />]]>
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    <title>「パープルミステリー」の色の意味</title>
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    <published>2010-07-28T14:22:49Z</published>
    <updated>2010-07-28T14:26:53Z</updated>

    <summary><![CDATA[　の歌詞にはパープル、イエロー、オレンジなどの色名が出てきたかと思いますが、他の色であってもかまいません。西洋の色の概念は純然たる色成分の名称であり、単独では何の意味も含まれていないからです。&nbsp; ...]]></summary>
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        <![CDATA[　の歌詞にはパープル、イエロー、オレンジなどの色名が出てきたかと思いますが、他の色であってもかまいません。西洋の色の概念は純然たる色成分の名称であり、単独では何の意味も含まれていないからです。&nbsp; ]]>
        <![CDATA[<br />　これらの色は、たんに口調あるいは曲のリズムを合わせるために選ばれただけであって、この色でなければならない理由は特にはないのだといってよいでしょう。<br /><br />　レッドやブルーでは、パープルという色名のバリエーションとして口調が合わない、ということですね。<br /><br />　ですから、パープルミステリーとは何か、を検討すれば、他の色については以下同文ですませていいと。それで、結論を言えば「意味はありません」ということになるでしょう。<br /><br />　石川ひとみちゃんが子どもの頃に書いた作文の課題に「私の悩み」というのがありましたね。<br />　作文の結語は「なやみはありません」というものでしたけど、そういう話になってしまいます。<br /><br />　でも、前の記事は説明不足かなと思いますので、例によって落ち穂拾いをして、増補しておきます。<br /><br />　私たちがパープルという色を想像する場合、漠然と紫色を思い浮かべ日本語の紫色にまつわる情趣を連想するのかと思います。<br /><br />　私も若い頃に紫色のパンタロンを履いて、紫色のシャツを着たりしていたことがありますが、紫色を好むのは欲求不満の現れであるという心理分析の説明を読んで、そうかな？と考えたことがあります。<br />　今でも、紫色の服を着ている人を見ると、そういうことを連想してしまい、色というのは個人的色彩なのだなという思いがあります。<br /><br />　現在ですと、自然豊かなところに住んでいますから紫といえば藤紫や竜胆（竜胆）色という感じですので、ずいぶんと情趣が変わってきます。<br /><br />　ですから、あの色彩心理学の話というのは、西洋心理学の翻訳に過ぎなかったのだな、と思います。<br /><br />　ちなみに紫色とひとことで言っても、<a href="http://www.color-guide.com/purple.htm">これだけの色</a>があります。&amp; lt;br /&gt;<br />　古来日本語の色名というのは、そのほとんどが現実にある事物の色であり、それらの属性を捨象した色を表す形容詞というのは実に白・黒・青・赤しか、はじめの頃はなかったようです。<br /><br />　三原色の一つである緑は、緑の黒髪という表現では黒髪の縁語でしかなく、緑色を意味してはいない。<br /><br />　大岡信の『詩の日本語』によれば、黄色は「黄色い」という変則的な使われ方で、後から成立したものだという。<br /><br />　<span style="color: rgb(0, 128, 0);">「うすむらさき、という代わりに、藤袴（ふじばかま）や萩や葛を直接に名指す。黄という代わりに、山吹を言い、女郎花（おみなえし）を言い、菊を言う。淡紅なら撫子（なでしこ）、桃、葵（あおい）、牡丹（ぼたん）、合歓木（ねむ）、蓼（たで）その他。赤なら椿、百合その他。紫なら藤、菫（すみれ）、杜若（かきつばた）。碧なら桔梗（ききょう）、朝顔、紫陽花（あじさい）、竜胆（りんどう）。そして白なら梅、萩、橘、卯花（うのはな）その他。<br /><br />　植物だけでない。顔料もまた、丹砂、朱砂、燕支、青黛、空青、紺青、緑青、雌黄、銅黄、胡粉、蘇芳、雄黄、代赭、鉛丹、紫土、金薄、銀薄、藍花、紅青などと物質のなで呼ばれるのだ。」</span><br /><br />　ふりがなを記さないとほとんど読めないでしょう？私の子どもの頃でも、絵の具の色はすべて漢字で示されていましたので、今でも黄土色とか群青だとか言ってしまいますけど。<br />　<br />　<span style="color: rgb(0, 128, 0);">「臙脂（えんじ）・朽葉（くちは）・青磁・浅葱（あさぎ）・朱鷺（とき）・鶯（うぐいす）・くちなし・錆朱その他その他、日本にはじつに豊かな、ほとんどその豊かさに茫然とするほどの色名がある」</span><br /><br />　いくら言語力が低下した現代人といえども、パープルやイエローを紫・黄色と頭の中で翻訳した際には、日本的な情趣の一端が頭をよぎるのだろう。<br /><br />　そうであれば、このパープルミステリーという歌詞は「夜明けのスキャット」ほどの意味も持ち合わせていないというのは、言い過ぎなのかと思う。<br /><br />　でも、それぐらい過剰に言わないと、現在の読者層には分からないだろうという気持ちがあるので、ジャーナリスティックな書き方になってしまうわけだね。<br /><br /><br />　それで、『くるみ割り人形』の歌詞では、いきなり「るり色風吹くアスファルト」と始まりますけれど、「瑠璃色」は私たちの世代の人間には、大人気だったラジオ番組の「少年探偵団」の主題歌で広く知れ渡ったかと思う。<br />　「勇気りんりん <span style="color: rgb(42, 92, 170);"><b>るりの色</b></span>望みに燃える 呼び声は朝焼け空に こだまする」<br /><br />　瑠璃色の風は冷たい風ということになりますけれど、それを連想できない人は、パープルミステリーについても、連想ができないかもしれないな、ということを考えてしまいますね。<br /><br />]]>
    </content>
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    <title>Ishikawa Hitomi 「夢回帰線」Yume Kaikisen</title>
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    <published>2010-07-28T14:15:04Z</published>
    <updated>2010-07-28T14:21:15Z</updated>

    <summary><![CDATA[&nbsp;石川ひとみ 『夢回帰線』　（1985.05.05）作詞：岡田冨美子、作曲：松田良、編曲：チト河内　歌詞もタイトルも、曲も歌唱も良い歌なのに、なぜヒットしなかったのだろう？...]]></summary>
    <author>
        <name>Y.K</name>
        
    </author>
    
        <category term="03全曲インプレッション" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://mediaxross.com/">
        <![CDATA[<div align="center">&nbsp;石川ひとみ 『夢回帰線』　（1985.05.05）<br />作詞：岡田冨美子、作曲：松田良、編曲：チト河内</div><br />　歌詞もタイトルも、曲も歌唱も良い歌なのに、なぜヒットしなかったのだろう？]]>
        <![CDATA[　ひとことでいえば、いろいろとちぐはぐなのかなと感じます。プロモーションが問題なのでしょう。<br /><br />　久保田早紀「異邦人」が大ヒットしていますので、その後にできたこの曲は二番煎じの観を払拭したいという思惑があったのかもしれない。<br /><br />　同じロングのカーリーヘアでも、久保田早紀はお嬢様風で、お嬢様風なドレス姿でした。男の子のロマンチック願望を十二分に受け止めて、夢のあるイメージを作り上げています。<br />　ちょっと小太り気味でしたが、終始うつむき加減にピアノを弾いている姿は、スタイルや歌唱力などの難点を隠してお嬢様アイドルとしていい演出となっていますね。<br /><br />　石川ひとみ 『夢回帰線』の曲では、「異邦人」の印象的なマイナー転調はありませんが、伸びる高音で「女ごころ覗けば　裏窓がある」と、聞いていてスカッとするフレーズがあり、甲乙つけがたい良い曲に仕上がっていると思える。<br /><br />　でもヴィジュアルな面は、どうもちぐはぐな感じだな。<br />　意気込みすぎているのだと思う。<br /><br />　どうせならば、化粧品のCMイメージのまま歌ってしまった方が良かったのに、と。<br />　TVや舞台用には全然別のイメージを打ち出したかったのでしょう。<br /><br />　カーリーヘアが少しやり過ぎ、かな<br />　衣装のコンセプトがシルクロードでもなく、日本でもなく不明瞭だけど、まいいか<br />　フリが石川ひとみには似合わないアクションだね。<br /><br />　ロマンチックな要素もエロスもなく、<br />　いけない女にしては、笑顔がかわいくて、どこか合わない<br /><br />　それで、岡田冨美子さんの歌詞も、シルクロードを舞台にしながら、内容は日本情緒。<br />　<a href="http://mediaxross.com/2009/10/yumekaikisen01.html">プロデュース問題で取り上げた時</a>は「裏窓」という表現をすこし冷やかしてしまいましたが、岡田さんが表現したかったことは極めて日本的な「後ろ姿の風情」なのですね。<br /><br />　1970年（昭和45年）11月歴史学者、会田雄:著 『日本人の意識構造』が話題になりました。<br /><br />　会田雄次は夏目漱石の『心』を取り上げて、<br /><br />　　<span style="color: rgb(0, 128, 0);">青年がある女性に求愛した。ところが「いや」といって、背中を向けて部屋から逃げ出した。<br />　　ただ、出て行くときに、襖に手をかけて、顔だけを振り向けて「わたしも、あなた好きよ」という。<br /><br />　「背の表情、後ろ姿の表情を日本人ほど深く感じとる民族がいるだろうか。<br />　 <span style="color: rgb(255, 33, 102);">表は固く閉ざしていても、枝折戸（しおりど）を開けておく</span>というのが日本人の癖である。<br />　 愛を受け入れるか否かという問題に限らず、すべての人間関係において」</span><br /><br />　...と述べている。<br /><br />　大衆歌謡の作詞をする者としては、日本人の性行を知っておくということは必須の課題ですから、岡田さんは当然このベストセラーを読んでいたかと思う。あるいは、話題の中で、知ったかもしれない。<br /><br />　「表面は強がっていても、心の中では自分の心と躯に火を点けて去っていくあなたを恨めしく見送りたい」<br />...そういう女性の気持ちを表すために、<b>枝折戸</b>ならぬ<b>「裏窓」</b>と現代的あるいはこの地域にふさわしく言い換えているわけです。<br /><br /><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="semin01.jpg" src="http://mediaxross.com/gazou01/semin01.jpg" class="mt-image-none" style="" width="560" height="1098" /></span><br /><br />　ですから、シルクロードという過酷でドライな文化圏を舞台に、非常に日本的な心性を織り込んでいるわけで、これもちぐはぐに感じるところです。文明の衝突が顕在しているように思う。<br /><br />　岡田さんの歌詞は、たとえば「<span style="color: rgb(0, 191, 0);">南から　忘れる為の風が　私を運ぶ</span>」というように細かいリアリティーにこだわらない作風がみられますけども、人生経験よりも想像力が克ちすぎているきらいがあります。<br /><br />　このような歌詞が前提としてあり、意味的なものをそれからくみ取ってプロモーションのイメージングをしていくわけですから、岡田さんほどの教養をもっていない若いスタッフがコンセプトの明瞭でないイメージしか持てなくとも、しょうがないかなと思う。<br /><br />　私としては、ピアノは「異邦人」の二番煎じになるから、せめてウードを手にして、ハイチェアーに軽く腰掛けて歌う、というスタイルが良いかなと想像しちゃうね。<br />　真っ赤なロングドレスを着て、それをほとんど隠してしまうくらいの黒くて薄く透けるショールをはおり、イントロの一部くらいウードをつま弾きながら、<br /><br />　早紀ちゃんのようにうつむき加減で歌って、「燃える　あのヒトミー」で顔を上げて遠くを見るように、<br />　「もう一度　迷わせて」で静かに目を閉じていく、のだ。<br /><br />　あっ、ウインクはいらないよ。<br />　できれば、目を閉じるときに、愁眉（眉の根元にしわを寄せる）の表情をつくるとイイかな。<br /><br />　シルクロードのいけない女が何を思い、何を想像しているのかな？という印象を表現できたら、<br />　石川ひとみ、いい女！って、惚れ直しちゃうだろ？<br /><br />　この歌は、目を閉じて聴いた方がロマンチックもエロスも湧いてきそうだね。<br />]]>
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    <title>石川ひとみ　「あなたの心に」　一五一会版</title>
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    <published>2010-07-28T14:07:13Z</published>
    <updated>2010-07-28T14:14:21Z</updated>

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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://mediaxross.com/">
        <![CDATA[　石川ひとみさんが歌う「あなたの心に」<br />　以前に中山千夏の動画を引用していますので、ひとみ版も載せておかないと。<br />　若々しい歌ですから、やはり20才前後に歌っていると、いいのかもしれません。 ]]>
        <![CDATA[　今回は<a href="http://www.tg.rim.or.jp/%7Eshi-owa/menu.html">大輪茂男</a>プロデューサーの名誉回復のためにと、断りをして進めてゆきたい。<br /><br />　最近になって、大輪茂雄さんが何を考えていたのか、ふと分かるような気がしたからだ。彼が、デビュー当時の石川ひとみについて感じたものは「もっと影を」だったのではないかな。<br />　明るく素直すぎて、そのまま大人の歌手になったら大人の女としての広がりと深みを追求することは難しくなる、という危惧を抱いていたのかもしれない。<br /><br />　久しぶりに何か曲を載せようと、今日は夕方からLP曲や一五一会曲を次々と試聴していたのですけれど、なかなか決まらない。歌詞も曲も良いというのはなかなかないものですけれど、どうもそればかりではないのだね。<br /><br />　それで、一五一会曲をずっとチェックしていて、フォークソング編あたりから選曲しようと...<br />　神田川、悲しくてやりきれない、真夜中のギターとか、逡巡して「あなたの心に」を選んだけれど、大人の女の歌ではない。そういうたぐいの歌がないのだねェー。<br /><br />　以前から、石川ひとみさんに大人の恋愛歌を歌って欲しいなと願っていましたけれど、悪い女にならないとそういう歌詞は書けないですから、今の石川ひとみさんには無理っぽいかなと思う。<br /><br />　たとえが飛躍してしまうのだけど、立木義浩（たつき よしひろ）と篠山紀信の違い、みたいなものを感じるわけです。<br />　立木はきれいな女性写真専門で、篠山のような毒がないとよく比較されたものです。<br />　篠山紀信はヘアーヌードを当局に認めさせた功労者ですし、今回の騒動も確信犯的にやっていて、健在だなと。<br /><br />　仲の良い夫婦としてファミリー向けの曲を出したり、肝炎に関する講演を精力的に行っている石川ひとみさん、年相応にまみれた愛の歌詞を書くことははばかられることかもしれない。<br /><br />　大輪茂雄はそういうものを将来的に危惧していたのではないだろうか。<br />　彼が意図していたものは、決して間違ってはいなかったと思うけれど、デビュー早々18才のひとみちゃんにやらせるのは時期尚早だった、ということだね。<br /><br />　吉永小百合は「キューポラのある街」のような、清純な汚れ役で一皮むけて女優としての地位を確立したけれど、石川ひとみは汚れ役の汚れを（蓮の花のように）はじいてしまう人ですから...。<br />　困ったよい子だ、と形容するゆえんです。<br /><br />　まあ、石川ひとみさんはまっすぐに生きてきた人ですから、地のままで文句のつけようがないのですけれど、私もまた大輪と同じような要らぬ心配をしてしまうな。<br />　つまり、清く正しく、正論ばかり吐くおばさんには似て欲しくはないな、と。まったく余計なお世話ですけど。<br /><br /><br />　以下は蛇足です。<br /><br />　最近、女性の恋愛歌ばかりを集めた- 自歌自注 -『相聞』（短歌新聞社）という本を読んでいて、作品の出来不出来は別にして、大人の女の心情が垣間見ることができて、なるほどねと感じるところがありました。<br /><br />　勝手に引用するのははばかられるところですが、部分的に引用させていただきたい。<br /><br />　　　<span style="color: rgb(0, 180, 0);">逆光に天秤のような君の肩わが寂しさにかたむきて来よ</span><br /><br />　<span style="color: rgb(0, 128, 0);">＜ひとは全て１人の人間として孤独である。愛は人の原初的な生の孤独を越えることができるだろうか＞</span><br /><br />　　　<span style="color: rgb(0, 180, 0);">掌をとれば掌のあたたかさありながら　とらへ方なき君と思へり</span><br /><br />　<span style="color: rgb(0, 128, 0);">＜みずみずしい恋を続けるには、たとえどんなに愛し合っていても一緒には暮らすまいというのが私の悲痛な覚悟である。真の孤独を知り、偽りのないその儘の姿を投げかける人に惹かれる。だから私は私に優しくして呉れる人を信じない...＞</span><br /><br /><br />　　<span style="color: rgb(0, 180, 0);">さざなみの光るが如く微笑する彼をみつめて一夜短し</span><br /><br />　<span style="color: rgb(0, 128, 0);">&lt;一年中一緒に暮らす人よりも、「一夜短し」の仲の方が、さざ波が美しく広がり、...＞</span><br /><br /><br /><br />　「悪い女だと　ひとは言うけれど　イイじゃないの　自分がよけりゃ（元歌は「幸せならば」）」という感じだね。<br /><br />　こういうものを読んだ後で、若々しい歌を聴くと、何とも微妙だね。<br /><br /><div>　<br />　何とも言えませんので、和歌続きで、西行の歌などを、<br /><br />　<span style="color: rgb(255, 33, 102);">あくがるゝ心はさても山櫻ちりなん後やみにかへるべき</span><br /><br />「山桜を愛で、心が体から抜け出すのを留めることはできないけれども、その花が散った後は、我が身に還ってくるものよ」<br /><br />　特段、深い意味はありません。男はみんな、こうなのさ、とでも。<br /><br /><br />　追記<br />　和歌は直叙を旨とする表現形式なので、両刃の剣のように自他を傷つけるごとき厳しさがある。<br />　西行の歌は西行の歌ですので、短歌的叙情には全く縁がないのだけれども、やはり自分の言葉で述べておくべきかと思う。<br /><br />　あくがるゝこころ捨ておけ山桜春霞の夜にたよる由なく<br /><br />　自注：ファンの戯言（たわごと）など捨ておくがよい。春の霞のように移ろいやすく頼りない人気や評判などは、春の夜にざわめく男どもの気迷いほどにも寄る辺ないものにすぎないのだから。<br /></div>]]>
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    <title>「長そでのカーディガン」にみる石川ひとみの特質</title>
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    <published>2010-07-28T13:57:56Z</published>
    <updated>2010-07-28T14:06:13Z</updated>

    <summary>　石川ひとみ「長そでのカーディガン」(1) がないとやはり片手落ちの感がありますので、前の記事の追いの感じになりますが少し付け足しておきます。 ...</summary>
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        　石川ひとみ「長そでのカーディガン」(1) がないとやはり片手落ちの感がありますので、前の記事の追いの感じになりますが少し付け足しておきます。 
        <![CDATA[　『なごり雪』の中で、「どちらかが上京したとしても残された方には寂しさがある」と書きましたが、その寂しさの感覚は程度の差こそあれ、男性と女性では大きな違いがあります。<br /><br />　女性的な感覚の良い例が石川ひとみ『長そでのカーディガン』であり、<br />　・つないだ手のぬくもり　忘れないから<br />　・つないだ手のぬくもり　忘れていない<br /><br />　というこの曲のキーワードが女性の気持ちを、さりげなく表しています。<br /><br />　以前に、男の思考は「目的志向」であり、女性は「プロセスを重視」ということを述べていますけれど、プロセスというのは継続性の上に成り立っています。<br />　女性性の思考の特質のひとつはこの「関係の継続性」というものであり、ほとんど本能的なレベルで重視するということがあげられます。<br />　この傾向は、もちろん男の子にもあって、男女の脳の性差が明瞭になる思春期の頃までは保持しているのですが、それ以降徐々に失っていきます。<br /><br />　私の記憶でも、小学生の時の初恋の女の子が中学校進学で特別なエリート中学校に進んでしまい、世の中真っ暗、こころに風穴という空虚感に襲われたことがあります。<br />　でも、中学生になると、別の小学校から合流してきた新鮮な同級生の女の子たちが出現して、あの娘が好きになったりこの娘が良くなったり、上級生だったり下級生だったりと、すっかり浦島太郎状態。<br /><br />　それでも、2、30年も立った後に、夜半の目覚め時など不意に初恋の終わりの記憶がよみがえってきて、その頃感じた深い喪失感に見舞われたりします。少しも癒えていない空虚なものがある。<br />　そして、女性にとって何よりも耐え難いのはこの深い喪失感なのだろうな、と想像することがあります。<br /><br />　ですから、<br />　「つないだ手のぬくもり　忘れないから」という言葉は、あなたのことを忘れないから、という意味であり、その裏には「私のことをいつまでも心の中に留めていてもらいたいし、好きでいてほしい」という願望がじつは込められているのでしょう。<br /><br />　そして、<br />　「つないだ手のぬくもり　忘れていない」という言葉は、ただ単に「忘れていない」という事実を述べているだけでなく、<span style="color: rgb(255, 33, 102);">「あなたも私のことを、忘れていないでしょうね」</span>という、リマインダーのようなものにまで感情的に外延されている、ということになろうかと思う。<br /><br />　そしてさらにいえば、<span style="color: rgb(0, 180, 0);">あべ静江</span>「<a href="http://www.youtube.com/watch?v=10oszRXF6Q4">みずいろの手紙</a>」（1973年　作詞:阿久悠／作曲：三木たかし）の前振り「<strong>そして今でも愛してると言って下さいますか</strong>」という気持ちも、そこには含まれているはずだと。それが継続性、ということです。阿久悠は、そういう女性の心情を理解して書いている。<br /><br />　これをひとみ流に言い換えれば、<span style="color: rgb(255, 33, 102);">「そして今でも　好きでいてくれるかしら」</span>くらいになるかな。<br /><br />　『長そでのカーディガン』は「HOME　MADE-ただいま-」収録曲ですから、作詞者：石川ひとみとしては、そこまで意図して書いているのかどうかは分かりません。<br />　けれども、ごく普通の女性感覚では、そういうものを相手の男に突きつけるのだ、と考えるべきかなと思う。<br /><br />　ところが、男の記憶というのは基本的に非継続的なものであり、いってみればまだらボケのようでしかない。以前に引用した「黒の舟歌」の歌詞のように...<br /><br />　たとえば男は　あほう鳥<br />　たとえば女は　忘れ貝<br /><br />　アホウドリですからね。「つないだ手のぬくもり、忘れていない」けれども、<br /><br />　朝の電車で、カバンを持った手の甲に偶然！触れてしまった見知らぬ女性の尻の感触とか、<br />　会社のエレベータで、部下のOLが「おはようございます！」と言いながら、おっぱいをぐいと押しつけてきた二の腕の感覚とか、そういういけない手の記憶の方が強い印象として残ってしまうのだよねェ。<br />　それで、女性が大事にしている（恋愛）感情などは、すっかり忘れているのが男っていうヤツだな。<br /><br />　そういう直接的な感覚の意味ではなく、言葉が表象している「あなたのことを忘れない」ということで言えば、男の場合は「永遠の瞬間」としか言えないようなイメージとして記憶する、ということが多いようだ。<br />　普段はほとんど想い出さないけれど、そのイメージは一瞬で自分をその現場に連れ戻す。<br />　時間というものを越えており、いつまでも光り輝く、時を越えた価値をもつ一瞬なのだといってよい。<br /><br />　別ブログで、そういう女性の記憶を書いたことがありますけれど、八ヶ岳で見た妖精石川ひとみの記憶もまた、永遠の瞬間のひとつだったのでしょう。<br />　あのとき、会場からビデオカメラでも回していれば、あるいはカメラで写していれば、こういうイメージ、と示すこともできるのかもしれないけれど、テレビや舞台では決して見られない表情とそのイメージ。二度と掴まえる事のできないイメージだからこそ、限りなく惹きつけられていくものがあるのでしょう。<br /><br />　けれども、女性の場合、そういうものを見るということはあまりないようだ。画家とかカメラマンは圧倒的に男が多いのは、イマージュを見る能力が男は長けているという理由も、ひとつ考えられるだろう。<br />　女性的心性では、関係の持続性の方がより重要な関心事ですから、私は忘れない（あなたも忘れないでね！）ということになる。<br /><br />　でも、アホウドリの男としては、何かしら精神的な負担を感じて、「俺のことなど、忘れてくれ」といいたい気持ちがどこかにあるはずだ。<br />　淡い恋心ならばそれでいい。うまくいっている恋愛関係なら、やはりイイだろう。<br />　けれども、そういう延長上では人生が展開していくものではない。<br /><br />　すると、この女性的心性が、男にとっていつしか両刃の剣にもなり得る。<br />　時には、「俺のことはほっといてくれ」といいたくなることもあるだろう。<br /><br />　この歌が違和感なく成立するのは、あくまでも母と子を対象にしたアルバムであるから、なのでしょう。そのような感覚が生きている世界の歌である、と。<br />　大人の男が、この歌を聴いても「ああ、メルヘンの世界で、石川ひとみ的世界だな」とは思うけれども、メイン・テーマである「忘れないから　→　忘れていない」という関係持続性には、さほど重い意味をかんじないだろうな、と思う。<br /><br />　けれども、ファミリーは母親と子だけでなり立っているわけではなく、父親もいるのだから、男はこのような女性の根源的な欲求・願望をしっかり理解して、名実ともにファミリーの一員としてつながっていなければ家庭はうまくいかないものです。<br /><br />　女・子供向けの歌だと、安易に考えない方が良いでしょう。女性的に見れば、重い歌なのだな、と。<br /><br />　女房に言われたのであれば、「うるさい」の一言で逃げてしまう場合もあるかと思うけれど、石川ひとみさんが歌っているのですから、素直に聞けるのではないかな。<br /><br />]]>
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