ヨーロッパ諸国を席捲したPOPsが日本に流入してきた経緯を紹介してきましたが、その震源地であるアメリカンPOPsを取り上げて区切りをつけたいと思います。
始めにコニーフランシス、次回はニール・セダカのお二人。
エルビス・プレスリーは当時不良青少年の音楽とされたロックンロールですので、今回はパスします。
始めにコニーフランシス、次回はニール・セダカのお二人。
エルビス・プレスリーは当時不良青少年の音楽とされたロックンロールですので、今回はパスします。
おそらく、1960年前後の我が国にもっとも多くのカバーバージョンとその歌手を創出したのはコニーフランシスではないかと思います。ポピュラー音楽という言葉がもっともぴったり合う歌手でした。
Connie Francis:USA、ニュージャージー州ニューアーク出身(1938.12.12生まれ)
本名:Concetta Rosa Maria Franconero(コンチェッタ・ローサ・マリア=フランコネロ)
11歳からショーに出演していたという、イタリア移民の天才子役です。
当時のPOPsの出だしは、感情を表す感動詞が入る、というものが多いですね。
日本の歌ではほとんどなく、いかにも外人だなという印象を持ちました。
日本の歌では、バックコーラスがクラシック唱法であるヴォーカリーズ (Vocalise)でイントロのムードを醸し出すという構成法が出てきますが、これは日本的アレンジなのでしょうか。
(伊藤咲子『冬の星』のバックコーラスVocaliseが参考になります。)
『Someone Else's Boy』
芸達者というか何というか、ヨーロッパ系であるからこそバイリンガルなのですね。
アメリカ人は、世界中英語が通じるという幻想というかパン・アメリカ思想に毒されている人が多いので、日本語なんぞで歌うということはほとんどありません。
非英語圏の人たちは歴史的にも・地理的にも・文化的にもバイリンガルであることが必然なのでしょうね。
この歌を聴いていて、いつも思ったのは友達の彼氏とデートする夢を見るという、精神構造についてですね。
1960年頃ですから、およそ考えられない話だなという違和感がありました。歌の中でも「皮肉だわ、こんなイヤな夢」といっていますけれど、そういう夢を見るという歌詞を書くことが信じられない感じがしました。
半世紀遅れた現在の我が国ですと、二股愛とか奪い愛とかよくある話になってしまいましたから、あり得ることなのでしょうね。でも、当時は日本人とはメンタリティーが違うなという感じがつきまといました。
そしてみなさん、出だしにWohという感情表現のフレーズを入れる、という非日本語的歌謡スタイル。
日本のPOPs歌手がそれをそっくり踏襲するわけですから、私の印象では、「これは外国の歌なのよ!」という前口上ででもあるかのように感じたものです。
なぜそんなことを取り上げるかというと、たしか小学三年生くらいの頃、学校の廊下でヘレンシャピロの哀しき片思いとか、この歌、あるいは次に取り上げるニール・セダカの歌とか口ずさんでいたのですが、終業前の学級反省会みたいな場で問題にされたことがあったのです。
なかにし礼の話だったか、ポピュラーソングを口ずさんだら学校の担任に密告されて、親が呼び出されて職員室で説教された、などと言うことがあったそうです。
なかにし礼は、私よりは一世代上の人ですからより保守的な時代だったわけですが、私のころでも文化の衝突が摩擦くらいになったとはいえ、偏見があったわけです。
ほんの1年ぐらい前に「外人でも、歌なんか唱うの?」と親に尋ねた子供の耳に、この手の曲が一気に飛び込んできたわけですから、影響力は大きかったですね。夏祭りの舞台で多摩幸子の歌に感動した子が、やがて程なく海外ポップスの洗礼を浴びたのですから。
Too Many Rules (大人になりたい)1961年
この動画は、何というかアキバ系コニーフランシスとでも申しましょうか、雰囲気があっていますね。
英語で歌うときは大人のショービジネスでもまれてきたConnie Francis を演じ、日本語で歌うときは精神年齢ティーンエイジャーと言われた日本人向きコニーフランシスを演じる。
単なる芸達者などではなく、スタッフがマーケティング・リサーチをしっかりとやっており、ティーンエイジャーを巻き込むマーケティング戦略をしっかり持っているなということが分かります。アメリカはそのような情報戦略では、我が国よりも遙かに先を行っていました。
ですから、アメリカではシングルリリースしていないこの曲でも、哀愁路線が好きな日本人のメンタリティーに合うということで、日本語バージョンを投入してきています。
ですから、私の印象では下手な日本語で歌を歌う変な女性歌手という印象がちょっとありましたけど、相当日常意識の中に入り込んでいました。
とにかく、団塊世代には記憶に残る曲がたくさんあるかと思います。
Connie Francis:USA、ニュージャージー州ニューアーク出身(1938.12.12生まれ)
本名:Concetta Rosa Maria Franconero(コンチェッタ・ローサ・マリア=フランコネロ)
11歳からショーに出演していたという、イタリア移民の天才子役です。
当時のPOPsの出だしは、感情を表す感動詞が入る、というものが多いですね。
日本の歌ではほとんどなく、いかにも外人だなという印象を持ちました。
日本の歌では、バックコーラスがクラシック唱法であるヴォーカリーズ (Vocalise)でイントロのムードを醸し出すという構成法が出てきますが、これは日本的アレンジなのでしょうか。
(伊藤咲子『冬の星』のバックコーラスVocaliseが参考になります。)
『Someone Else's Boy』
芸達者というか何というか、ヨーロッパ系であるからこそバイリンガルなのですね。
アメリカ人は、世界中英語が通じるという幻想というかパン・アメリカ思想に毒されている人が多いので、日本語なんぞで歌うということはほとんどありません。
非英語圏の人たちは歴史的にも・地理的にも・文化的にもバイリンガルであることが必然なのでしょうね。
この歌を聴いていて、いつも思ったのは友達の彼氏とデートする夢を見るという、精神構造についてですね。
1960年頃ですから、およそ考えられない話だなという違和感がありました。歌の中でも「皮肉だわ、こんなイヤな夢」といっていますけれど、そういう夢を見るという歌詞を書くことが信じられない感じがしました。
半世紀遅れた現在の我が国ですと、二股愛とか奪い愛とかよくある話になってしまいましたから、あり得ることなのでしょうね。でも、当時は日本人とはメンタリティーが違うなという感じがつきまといました。
そしてみなさん、出だしにWohという感情表現のフレーズを入れる、という非日本語的歌謡スタイル。
日本のPOPs歌手がそれをそっくり踏襲するわけですから、私の印象では、「これは外国の歌なのよ!」という前口上ででもあるかのように感じたものです。
なぜそんなことを取り上げるかというと、たしか小学三年生くらいの頃、学校の廊下でヘレンシャピロの哀しき片思いとか、この歌、あるいは次に取り上げるニール・セダカの歌とか口ずさんでいたのですが、終業前の学級反省会みたいな場で問題にされたことがあったのです。
なかにし礼の話だったか、ポピュラーソングを口ずさんだら学校の担任に密告されて、親が呼び出されて職員室で説教された、などと言うことがあったそうです。
なかにし礼は、私よりは一世代上の人ですからより保守的な時代だったわけですが、私のころでも文化の衝突が摩擦くらいになったとはいえ、偏見があったわけです。
ほんの1年ぐらい前に「外人でも、歌なんか唱うの?」と親に尋ねた子供の耳に、この手の曲が一気に飛び込んできたわけですから、影響力は大きかったですね。夏祭りの舞台で多摩幸子の歌に感動した子が、やがて程なく海外ポップスの洗礼を浴びたのですから。
Too Many Rules (大人になりたい)1961年
この動画は、何というかアキバ系コニーフランシスとでも申しましょうか、雰囲気があっていますね。
英語で歌うときは大人のショービジネスでもまれてきたConnie Francis を演じ、日本語で歌うときは精神年齢ティーンエイジャーと言われた日本人向きコニーフランシスを演じる。
単なる芸達者などではなく、スタッフがマーケティング・リサーチをしっかりとやっており、ティーンエイジャーを巻き込むマーケティング戦略をしっかり持っているなということが分かります。アメリカはそのような情報戦略では、我が国よりも遙かに先を行っていました。
ですから、アメリカではシングルリリースしていないこの曲でも、哀愁路線が好きな日本人のメンタリティーに合うということで、日本語バージョンを投入してきています。
ですから、私の印象では下手な日本語で歌を歌う変な女性歌手という印象がちょっとありましたけど、相当日常意識の中に入り込んでいました。
とにかく、団塊世代には記憶に残る曲がたくさんあるかと思います。
コメントする