ヴィッキー「L'AMOUR EST BLEU」の歌詞の意味を検索される方が時々いらっしゃいます。
Wiki では、フランス語のbleu と英語のblue とでは若干意味合いが異なる、という記述がありますね。
Wiki では、フランス語のbleu と英語のblue とでは若干意味合いが異なる、という記述がありますね。
まあ、それを言ったら、日本語の「アオ」だって、若干意味が異なります。
たとえば、我が国では馬の名前にアオと言うのが多いのですが、このアオは黒馬のことです。
解釈のポイントは「空のような水色」ということですね。
作詞・作曲者はAndre Popp・Pierre Courということなので、作詞者を尊重すればフランス語的意味合いを考慮する必要がありますが、歌っているのはギリシャ出身のヴィッキーですからそれも考慮しなければいけないでしょう。
西洋クラシック音楽の歌曲では詩があって、曲がつけられるという序列がありますが、ポピュラー音楽ないし大衆音楽というのは歌手に詩と曲を提供するというスタイルが基本となっています。
中村とうようは『大衆音楽の真実』という本の中で、「ポピュラー音楽ならば音楽を作り出す主体は歌手をも含む演奏者(ジャズやロックなどもひっくるめている)であって、作曲者は作品を提供した裏方に過ぎない、とまで言い切っている。
中村とうようの関心は歌謡曲にとどまらず世界中の民族音楽レベルまで含めているので、作詞の問題には触れてはいないが、やはり裏方の地位に甘んじることは避け得ないものがあるだろう。
わたしとしてはやはり歌手およびプロデューサーを中心とした陣営の問題だと総体として考えていますので、ヴィッキーが歌う「L'AMOUR EST BLEU」表現の意味なのだ、と申し上げたい。
ヴィッキーが生まれ育ち、その感性を形成したギリシャのイオニア海は、ギリシャ本土から見るとエーゲ海と反対側にあります。
エーゲ海から朝日が昇り、イオニア海に日が沈む。イオニア海には夕日が似合う、とでも。
イオニア海は、イタリアよりもさらに南の明るい海ですので、フランス的空の色とはかなり違うでしょうね。
ゲーテはイタリア紀行で、ドイツの暗い色調の世界からイタリア的な明るい色調の世界に触れて、鬱々とした気分が一気に晴れるのを覚えたそうです。
当然、フランス的パステル調の青い空と、ペルシャンブルーからウルトラマリンブルーに近いアフリカ・ギリシャ的ブルーとでは、当然受け取る感覚も違う、というわけです。
大衆は色彩心理学の学生ではないので、それぞれのブルーを感受するのだし、知っていれば多少は理解が深まるかもしれないですけれど、シンプルそのものの他愛のない歌ですから、印象がかわるというほどのものではありませんね。
例によって、漣健児の訳詞は自由闊達に原詩を意訳していますけど、少女の童謡みたいな意味内容しかありませんので、(フランス語のシラブルといった言語表現技術は言語体系の異なる日本語では全く意味をなしませんから)、まあこれでいいといえばこれでいいのでしょう。
森山良子版ではなく、石川ひとみ版を使わせていただきます。
石川ひとみさんのアの発音は、そのときの体調で変わってしまう傾向がありますが、この歌ではすこしノドを絞りすぎているように思えます。調子がいまいちで、ノドに力を込めて発声しているように聞こえます。
女性は、お肌の調子でも、化粧ののりが良いとか良くないとかありますが、声でもノリがイイとか悪いとかある...と、娘が申しておりました。
たとえば、我が国では馬の名前にアオと言うのが多いのですが、このアオは黒馬のことです。
解釈のポイントは「空のような水色」ということですね。
作詞・作曲者はAndre Popp・Pierre Courということなので、作詞者を尊重すればフランス語的意味合いを考慮する必要がありますが、歌っているのはギリシャ出身のヴィッキーですからそれも考慮しなければいけないでしょう。
西洋クラシック音楽の歌曲では詩があって、曲がつけられるという序列がありますが、ポピュラー音楽ないし大衆音楽というのは歌手に詩と曲を提供するというスタイルが基本となっています。
中村とうようは『大衆音楽の真実』という本の中で、「ポピュラー音楽ならば音楽を作り出す主体は歌手をも含む演奏者(ジャズやロックなどもひっくるめている)であって、作曲者は作品を提供した裏方に過ぎない、とまで言い切っている。
中村とうようの関心は歌謡曲にとどまらず世界中の民族音楽レベルまで含めているので、作詞の問題には触れてはいないが、やはり裏方の地位に甘んじることは避け得ないものがあるだろう。
わたしとしてはやはり歌手およびプロデューサーを中心とした陣営の問題だと総体として考えていますので、ヴィッキーが歌う「L'AMOUR EST BLEU」表現の意味なのだ、と申し上げたい。
ヴィッキーが生まれ育ち、その感性を形成したギリシャのイオニア海は、ギリシャ本土から見るとエーゲ海と反対側にあります。
エーゲ海から朝日が昇り、イオニア海に日が沈む。イオニア海には夕日が似合う、とでも。
イオニア海は、イタリアよりもさらに南の明るい海ですので、フランス的空の色とはかなり違うでしょうね。
ゲーテはイタリア紀行で、ドイツの暗い色調の世界からイタリア的な明るい色調の世界に触れて、鬱々とした気分が一気に晴れるのを覚えたそうです。
当然、フランス的パステル調の青い空と、ペルシャンブルーからウルトラマリンブルーに近いアフリカ・ギリシャ的ブルーとでは、当然受け取る感覚も違う、というわけです。
大衆は色彩心理学の学生ではないので、それぞれのブルーを感受するのだし、知っていれば多少は理解が深まるかもしれないですけれど、シンプルそのものの他愛のない歌ですから、印象がかわるというほどのものではありませんね。
例によって、漣健児の訳詞は自由闊達に原詩を意訳していますけど、少女の童謡みたいな意味内容しかありませんので、(フランス語のシラブルといった言語表現技術は言語体系の異なる日本語では全く意味をなしませんから)、まあこれでいいといえばこれでいいのでしょう。
森山良子版ではなく、石川ひとみ版を使わせていただきます。
石川ひとみさんのアの発音は、そのときの体調で変わってしまう傾向がありますが、この歌ではすこしノドを絞りすぎているように思えます。調子がいまいちで、ノドに力を込めて発声しているように聞こえます。
女性は、お肌の調子でも、化粧ののりが良いとか良くないとかありますが、声でもノリがイイとか悪いとかある...と、娘が申しておりました。
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